名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.392 〜複数人数いると話しにくいのは?〜

2017.04.17  【392日連続投稿】

 

今日も『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)から書きたいと思います。

 

一対一なら話せるけど、複数人になったらあまり話せないってことが私自身、結構あるなぁと思います。

それは何故なのか紐解いていけたらなぁと思います。

 

日本人においては人間の一人一人が、つまり他人と区別された自分として、充分に独立的に、独立的な主体として自覚されないということがあります。他人と自分との間の区別が、はっきりとしていないということです。つまり、他人がいつまでたっても、私にとって「あなた」である。そこまではいいのですけれども、今度は、その「私」は「あなた」に対してのみ「私」なのです。(中略)天皇や親や、あるいは仕事上の上役や先輩から「お前」とか「君」とか「あなた」とか言われる人間として、自分を自覚しているのです。

 あるいは一家の中にあって、子供から親として考えられ、妻君から夫として考えられ、つまり全ての他の人から二人称として考えられるのです。だからその相手の意思を、相手の考えを推しはかってみなければ、自分の行動を決定することができないのです。また相手も同時に、自分にとって二人称なのです。

森有正『いかに生きるか』『Ⅱ  日本人の生き方』より

 

日本人は相手との関係性が変われば、相手の呼び名が変わったり、敬語になったりタメ口になったり、相手との関係性を前提に話し方や内容までをも決定するということみたいです。

 

そもそも、話す行為が一対一ありきの構成になっていることが、日本語を難しくさせ、大勢の人の前で話しにくい所以のようです。

 

私がここで思う肝心な部分としては、二人称ということがどういうことなのかということだと思います。

 

ここでいう二人称というのは、相手に自分の同意を求めることしかしない関係であるということだと思っています。

 

他人を他人としてみていない。

言える範囲内でしか物事を言わない。

そんなことを「二人称」という言葉を使って表現されているのだと思います。

 

お互いが違う人であることを前提に接することを受け入れることができれば、他人に伝わる伝わらないを問題せず、一対一でなく複数人数での対話のスタートラインに立てるのではないかと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.391 〜たかをくくらないために〜

2017.04.16  【391日連続投稿】

 

先日の読物つれづれでご紹介した『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)から、「たたをくくらない  5つのポイント」をピックアップしたいと思います。

 

 読物つれづれ no.4 〜あなたの人生が変わる対話術〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

私は特別支援学校で講師をしていたり、個人的にインタビューゲームというコミュニケーションや対人関係を学ぶワークショップを行っている様々な場面から、他者に対して先入観を持つことで起きる対人関係の問題が結構あるのではないかと思っています。

 

自分をさらけ出すことへの恐れや苦手だと思っている人と接することなどは、自分が先入観を持っているから起きていることが多くあるのではないかと思います。

 

だからこそ、「先入観を外す=たかをくくらない」ということが重要なのだと思っています。しかし、具体的にどうやればいいのかということはなかなか私は分かりませんでした。

本書で紹介してある心構えは、具体的に示してあり、私にとって大変勉強になったものです。

 

「たかをくくる」ことへの説明とともに書き残したいと思います。

 

「たかをくくる」ことは、「対話」の精神の対極にあるものであり、これも〈「対話の死」〉を招いてしまいます。変化するもの同士だからこそ、今日の「対話」で終わることなく、明日の「対話」が意味を持つのです。

 

《たかをくくらないために  「5つの心構え」》

1、どんな相手に対しても、自分の感じ方や考え方を超えたものを持っているかもしれないと思って「聴く」こと。

2、昨日までのその人と今日のその人が同じとはかぎらない、と思って今日の話を聴いてみること。

3、途中まではいつも通りの話であっても、どこか微妙に変わってきているのではないかとおもって「聴く」こと。

4、相手が同じ話を何度もすることは、その話に込められている重要な意味をこちらが汲み取れていないからではないかと考えてみること。

5、昨日までは聞き取れなかった何かを、今日の自分ならば聞き取れるかもしれないと思ってみること。

 

おわり。

本日のつれづれ no.390 〜すぐに解決策に目を向けないこと〜

2017.04.15 【390日連続投稿】

今日は、名古屋市中村区にある寺子屋塾中村教室にて未来デザインというフレームワークの続きを行いました。

2ヶ月前から「インタビューゲームの今後について」をテーマに進めております。理念設定→現状把握→未来予測→要所解明→方法立案の5つの局面があり、今回は未来予測の局面を行いました。

そもそも未来デザインをやることになった動機が、今後の自分の人生を少しでも先を見据えると言いますか、どんな人生にしたいか、なんのために生きているのかというところを考える機会としてやることにしました背景があります。

 

前回の現状把握の局面で、私がやっているインタビューゲームが私の理想とかけ離れているものになっているということに気がつきました。
どうも今は、単発的なものになっていてイベント的なものになって少しの娯楽的なものになっていないかという懸念が私の中にあることに気がつきました。

今日の未来予測の局面では、今の現状がこうなったらいいなという理想的な好ましい未来を描くというものでした。未来を描くということで、「どんな状態であってほしいか」ということに目を向けるはずが、実際に取り組んでみて、私は「今の現状からどうすればいいか」ということを書いてしまっていました。別の言い方をすると、料理を作らないのに、食材だけ集めている感じとでも言えると思います。

 

「こうあってほしいから、こうする」となることの方が筋があって、目的と手法が逆にならなず、上手くいくはずなのですが、どうも上手くいかなかったことがあると解決策をすぐに見つけてしまいがちなのだなぁと実感しています。

 

今日のことを振り返って、書いてみました。 

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上手くいかないことがあると、すぐに上手くいきそうなやり方に目をやりがちだ。

しかし、上手くいかないことが上手くいくことに変わることが最も大切なことではない。

自分という存在の意味や価値を見ず、上手くいくことを優先することが大切なのか?

自分の大切にしたい想いを忘れず、理想を持つことを忘れずいることは、上手くやることよりも大切だ。

上手くいっていないことを歓迎して、短絡的な解決をせず、本来の目的に立ち返ればいいのだろう。

だからこそ、自分の理念や信条は大切なんだろうな。

自分の想いを掘り下げることは、自分にしかできないのだから。

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おわり。

読物つれづれ no.4 〜あなたの人生が変わる対話術〜

2017.04.14  【389日連続投稿】

 

 『あなたの人生が変わる対話術』(著:泉谷閑示)という本を読みました。

 

あなたの人生が変わる対話術 (講談社+α文庫)

この本との出会いは、いつも御世話になっている寺子屋塾の井上さんがインタビューゲームに関連する推薦参考書の1冊として『こころをひらく対話術』(著:泉谷閑示)を紹介されていることがきっかけとなりました。しかし、最近までは絶版となり入手できない状態でありました。2017年2月にやっと『あなたの人生が変わる対話術』として、出版社が変わったこともありタイトルが改められ刊行されることになったことで手にすることができました。

 

著者である泉谷閑示さんの『普通がいいという病』という本を以前読んだことがあります。自分と関わることや他人と関わることについて書かれており、何度でも読み返してしまう一冊でした。

 

そのこともあり、手に取ると早速読み始めました。

タイトルから想像すると、コミュニケーションの技法が多く紹介されている本のように受け取ってしまいそうですが、

そもそも「対話とは何か?」というところから始まっており、私は今まで当たり前のように「対話」という言葉を使っていましたが、対話についてにもっと言えばコミュニケーションや生き方についても考える機会を与えてくれることになりました。

 

第1章で、そもそも対話とは何か?という問いに対し、対話を行う4つの前提を泉谷さんが提示されています。

《対話を行うための4つの前提》

前提1:相手を「他者」として見ることから「対話」は始まる

前提2:対話は、「他者」を知りたいと思うことから始まる

前提3:対話は、お互いが変化することを目標とする

前提4:対話において、話し手と聴き手に上下関係はない

 

 

以上の4つの前提を見て私なりに対話というものを考えてみました。

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 異なる「私」と「あなた」という存在が、

 

お互いを知りたいと思う関心が交じること。

 

お互いが変わっていくことに不安や恐れがなく、

 

歳や経験が異なっていても、上下関係・主従関係などない。

 

自分の言いたいこと・聞きたいことで相手を束縛するのでなく、

 

相手が新しい自分に出会う機会になる。

 

それが対話なのではないだろうか。

 

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一記事でまとめることが到底できない本だと思うので、気になったポイントを数記事に渡り書くことになりそうです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.389 〜本日のつれづれを再検討〜

2017.04.13  【388日連続投稿】

 

ここ最近、ブログについて再検討をしております。

 

2015年8月11日からアメブロで開始し、2016年1月よりはてなブログに移行して、「毎日書く」ということを決めています。

 

2016年3月22日から現在に至っては、毎日書くことが続いており、書くことから様々な気づきをもらっています。

 

多くの記事が、「これを書こう!」という気持ちで書くのではなく、書きながら気付いていくことを書くことをしている感覚です。

 

書いている記事の主なカテゴリーとしては、以下の3つです。

・本日のつれづれ

→その日の気づき等を書き留める。

・インタビューゲーム日記

→インタビューゲームを行なった振り返りの記録として。

・読物つれづれ

→ざっくりいうと読書記録。

 

私が書いている記事は、圧倒的に「本日のつれづれ」のカテゴリーに属しています。

 

当初は、その日の気付きを掘り下げることを意識していたのだと思っていますが、時には日記のようになったり、ただただ思ったことを書き留めただになった記事もあります。

 

過去に続かない経験を何回もしている中で、書く内容を自分でハードルを上げて書けなくしているということに気付き、「何でもいいから毎日書くこと」を決めてやってきました。振り返ると「何でもいい」としたからこそ、毎日書けたのだと思います。時には、「今日は書きたいことがありません。」と書いたこともありました。

 

今までは自分の思考を単純に文字に起こす。

想いやその時の感情を書き残す。

自分の感情を感じ切る。

 

何でもいいから書くことは、このような役割も果たしていたのではないかと思います。

 

約一年前には、そんなことを書くのはいいけど、わざわざFacebookに投稿するのはどうなんだろうと思ったこともありました。

 

本日のつれづれ no.67 〜自分のブログの在り方を再検討〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ 

 

FBに投稿することで、周りの人からの視線を気にする自分がいたり、自分の承認欲みたいなものがあるんじゃないかと思ったりしていました。

 

しかし、1ヶ月FBに投稿しなかった期間の間で、「書いたことは結局人に見てもらいたい」と思うようになりました。見てもらう人がいないと余計に自分寄りの表現といいますか、独りよがりの文章になっている ような気もしていました。

 

FBへの投稿を再開してから内容にはあまり他人を登場させないといいますか、自分の中で起きていることを書くことを意識して書きました。

 

結局、自分の想いばかり書いていても毎日同じようなことばかり書いたりしていて、「堂々巡りしてるなぁ、自分」と思うことがしばしばありました。週に1度通っている寺子屋塾での繋がりの方が書かれているブログを読むと、「結局、自分の中で起きていることの背景や過程が書かれていないと独りよがりの文章になってしまうのではないだろうか」と思うようになりました。

 

今回、再検討しようと思ったのは「いきなり自分の気持ちをずら〜と書いていくのでなく、そう思った背景や過程を書くことが必要なのではないかと思うようになってきたからです。背景や過程を書くことでより一層自分を客観的に観ることにもなるとともに、独りよがりのものではなくなるのではないかと思います。伝えたい気持ちもありますが、もっと自分の気持ちを自分が知ってできるだけ気持ちを表現したいのだと思います。表現するなら、伝わるものがいいとも思っているのかもしれませんが。

 

また、仕事の中身については書かない方向性でやってきたいと思っています。なぜなら、自分が背景や過程を書こうと思ったら、どうしても周りの人を登場させたりしなければならないことが多いと思い、それは名前などを出さなくても受け取る人によってNGだったりするかもしれないと思ったからです。

 

とは言っても、いきなり変える自信はなく、背景や過程をぶっ飛ばしたことを書いたりするかもしれません。(背景や過程をぶっ飛ばしてしまう可能性があるからこそ、今の仕事のことはあまり書かないようにします。)

 

今までは「本当に何を書いてもいい」という状態でしたが、今後は「何を書いてもいいけど、背景や過程を書こう」と思います。

 

少しでも変化を楽しみながら、書いていこうと思います。

これからも、、毎日書くは変わらず続けていくので、読んでくださる方はこれからもよろしくお願い致します。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.388 〜呑んだ後にらくだプリントをやってみて〜

2017.04.12  【387日連続投稿】

 

一昨日の記事より。らくだプリントが二日連続で不合格となり、遂に合格できるまであと何枚かやらないといけないかなと思っていました。

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本日のつれづれ no.386 〜「できない」べくして「できない」のだろう〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

《らくだプリントとは?》

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らくだメソッドの教材|どの子にも学力がつく らくだメソッド

 

昨日は、5-20のプリントの2枚目を取り組みました。

1枚目は、目安時間を超え、7問ミスという全くのできていない状態でした。

 

平日は、ほぼ仕事から帰ってきた後にらくだプリントに取り組みます。昨日は、飲み会から帰ってきた後に取り組みました。お酒を飲んだ後で、今までの経験上上手くいかないかなぁと思っていたため、ダメ元での挑戦でした。

 

しかし、結果は時間は約1分30秒早くなって目安時間内におさまり、ミスも1問で、なんと合格でした。

 

これは一体何が起きたのだろうと思います。

 

酔っていて、難しいことはできないだろうから一つ一つの工程(足す、通分、約分などなど。もっと言えば文字を書くこと自体)を焦らず丁寧にやろうと思っていたことは大きかったのではないかと思っています。

 

一つ一つの工程の中でどこかミスが生じているから答えにミスが出るのではないかと思っています。

 

また、一つ一つ丁寧に行うことで凡ミスが大幅に減った結果ミスが減り、消しゴムを使う機会が減ったから時間も短くなったのではないかと思います。

 

昨日の自分は、ある意味自分の状態をよーく把握今の自分に見合った形取り組めていたのではないかと思います。

いつもは、できるだけ早くやりたいなどという気持ちが先行していて自分の実力以上のスピードでやってしまうことなどがあります。

 

しかし、昨日は今の自分の計算力は落ちているから、丁寧にやろうと今の自分の力を把握していたからこそ、それに伴ったパフォーマンスができ、結果がついてきたのかもしれません。

 

まぁ、今日また不合格になるかもしれませんが、らくだプリントを通しての内省は面白いです。

 

おわり。

本日のつれづれ no.387 〜自分と関わる。他人と関わる。どっちも大事。〜

2017.04.11  【386日連続投稿】

 

ついつい何かを任されると自分一人でやらないといけない責任感を感じてしまうことがある。

 

でも、そんな時はどうも独りよがりになりがちなのではないだろうかと思います。

 

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この続きを書いたはずたのですが、消えてしまいました。

最近、消えることが増えてきています。

また、思い出したらこのことについて書こうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.386 〜「できない」べくして「できない」のだろう〜

2017.04.10  【385日連続投稿】

 

 初めてらくだプリントで同じプリントを2枚やっても合格できないことが昨日起きました。

 

《らくだプリントとは??》

            ↓↓↓↓↓

らくだメソッドの教材|どの子にも学力がつく らくだメソッド

 

時間はギリギリで2枚とも3問以上ミスをしました。

 

5ー19のプリントは分数の足し算で、帯分数を足して約分までもっていかなれればなりません。

 

例えば、

 

2{\displaystyle\frac{1}{2}}+5{\displaystyle\frac{3}{4}}

 

この式であると、「通分して、足して、分子が分母より大きくなるので帯分数に直し最後に約分する」というプロセスを経て私は解いています。

 

調子がいいときは、足すのと帯分数に変換するところをひとまとめにできたりするのですが、そういう時こそ間違えているのです。

 

時間を意識し少しでも時短をしてい気持ちで計算を簡単にしようとしている自分、短い手順で解いていることが粋だと勘違いしている自分がいます。

 

答え合わせをして間違いに気付くと反省しても、翌日やるときは合格したいという気持ちが先行し手順を省略しようとして間違えることや、単純な足し算で間違えることもありました。

 

一つ一つの工程は決して難しくないはずなのに、幾つもの工程が組み合わさると難しくなるのは面白いなと思います。

 

一つ一つなら今までできていたのに、少し組み合わさるとできないに変わるのです。

 

「できない」ときはそれなりの原因が潜んでいるのではないかと思うようになりました。

 

それは自分の単純な計算能力的な話かもしれないし、気持ちが落ち着いていなかった話かもしれないし、その他に自分が見えていない盲点があるんだと思います。

 

「できない」原因をみるというよりできていない自分を観察していくと、きっと「ここよくするといいかもな」と思うことが出てくるはずだと私は思っています。

 

その反省をなかなか生かし切れていない自分は、ここまではそれは今までどこかでは「2枚目なら1枚目の反省をそんなに意識し過ぎなくても合格できるだろう」と思っていた自分がいたのだろうと薄々感じていたのに、生かしていなかった結果なのかもしれません。

 

どこかで合格したい、合格しなきゃと思っていたのだと思います。

 

おまけに、今日の5ー20は時間以内に終わらず過去最多の7問ミスでした。

 

ついに、ありありと「できない」状況になってきた気がします。

 

うまくいかない時だからこそあれこれ試してみようと思います。

 

しばらく合格しない日々が続きそうな予感です。

 

おわり。

本日のつれづれ no.385 〜「座右の銘」ではなく「座右の問い」を持つこと〜

2017.04.09  【384日連続投稿】

 

座右の銘」ではなく「座右の問い」を持つという言葉に出会いました。

 

細かくいうと、とっくに出会っていたのですが、ようやく最近自分の腹に落ちてきた感覚がありました。

 

この言葉に出会ってのは、1年以上前に読んだ「シゴトとヒトの間を考える  -シゴトヒトフォーラム2012-」(著:中村健太・友廣裕一)という本の中で出会いました。その本の中で数行「座右の問い」を持つことについて書かれていて、当時は読んだようで自分の中には残っていなかったのだろうと思います。

 

しかし、毎日ブログを書くようになったり、らくだプリントを行なったり、寺子屋塾に通ったりする中で、日常的に問いを持つことが当たり前になりつつあり、私の中で問いを持ち続けることと生きることはとても切っても切れないものだと思うようになってきました。

 

その時、ふと思い出したのが「座右の問い」という言葉であったのです。

 

まだまだ私の「座右の問いはこれです」というものはありませんが、日々何かしらへ問いを立てることを大事に生きていこうと思った日曜日でした。

 

おわり。

本日のつれづれ no.384 〜今しか感じられないこと〜

2017.04.08  【383日連続投稿】

 

昨日書いた記事が消えていたので、リマインドで書いていこうと思います。

 

最近は、仕事のことばかり書いていますが、はやり今は仕事に時間を多く使っているので、自然と書くことも普段の生活が影響されているんだと思っています。

 

今年で今の仕事は2年目ですが、「よく見られたい」、「上手く行ってると思われたい」という気持ちが何処かにあるんじゃないかと思います。

 

その気持ちは、不安という形ややる気といった形で表されるのかもしれません。

 

初めてのことだからこそ、感じられる不安であったり期待であったりするんだと思います。

 

そう考えると、今の色んな気持ちは今しか感じられないんじゃないかと思います。

 

今の気持ちは今だけだと思うと、過剰に不安になることもなくいられるんじゃないかなぁと思いました。

 

おわり。