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名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.415 〜できない状況だから、できない自分を受け入れることをしようとする〜

2017.05.12  【417日連続投稿】

 

今週のらくだプリントにですが、月曜日に寺子屋塾へ行き、らくだプリントの小5ー30のプリントの1枚目を行い、見事不合格でした。

 

翌日にもう一回やろうと思ってファイルを手にとってみたら、

 

「小5ー30のプリントがない」と気付きました。

 

寺子屋塾に行くと、基本的にその日取り組むプリントを行い、先週の学習状況を学習記録表を見ながら、教室を開かれている井上淳之典さんと話した後に、取り組んだプリントを提出します。

 

どうやらその際に、その日取り組んだ5ー30のプリントをまだやっていないプリントを含めて提出してしまったようなのです。

 

かなりやる気を削がれた気持ちになりました。

自分がやると決めたことをできない状況を自分が作っていたんだと思うと、逃げたい気持ちになりました。

それでもやると決めたのは、「らくだプリントを毎日やる」という原点に立ち返ると順番通りに進んで行かなくてもいいんじゃないか、と思ったので一つ飛ばして5ー31にプリントからやっています。今日で5ー32まで終えることができました。

 

最近は、全問正解して次に進むということがなかなかありません。

一応、3問までミスしてよくて目安時間内に解くことができれば次のプリントに進んで良いということになっているので、全問正解でなくとも進んでいます。

これがもし、このような基準が決まっていなく次に進むかどうか自分自身で決めなければいけない状況でだったら、私の場合は全問正解してなければ合格ではないとしてしまいがちだと思います。

 

どうも完璧でなければならないと思っている節があるのだとは思いますが、

その「完璧でなければならない」は自分の中で勝手に作り上げた判断・基準でしかないということに気づくのです。

 

いい意味である程度でいい姿勢って大事なんじゃないかと思うのです。

小学校の算数の問題でさえ、同じプリントを何枚やっても間違えることを繰り返していると、こんなことにずっと止まってる自分はなんてしょうもない枠で収まっているんだろうと思わされるから、小学校の算数より難しいことって沢山あるのにそれを完璧でやらなきゃいけないと思っているのは、だいぶしんどいです。

 

あえて、できないでいいという状況を作り出し、できない自分を受け入れないと前に進めない状況も作り出しているのはらくだプリントを使った学習で通る道の一つと言えるのではないかと私は思いました。

 

来週の月曜日は、5ー30に再び挑戦します。

 

おわり。

本日のつれづれ no.414 〜伝えたい気持ち〜

2017.05.11  【416日連続投稿】

 
昨日の記事にも書きましたが、現在は私の人生で最も積ん読している状況ではないかと思っています。

ということで、ブログを書くために読む作戦を決行してはどうかと思ったので、少しずつでも毎日本を読むことを決めたいと思います。

今日は、ちょうど今週の週末の5月13日(土)にインタビューゲーム会を行います。
それに当たって、インタビューゲームをやるきっかけにもなった寺子屋塾の井上さんがインタビューゲームに関する推薦図書を揃えてきていることもあり、その中の1冊から今日は書きたいと思います。

 

伝えたいという気持ち

 

 私たち言語の教育に関わる者は、子どもの表現力をつけるという名目のもと、スピーチだ、ディベートだといういろいろな試みうぃ行ってきた。その一つ一つには、それぞれ意味があり、価値があったのだろう。

 しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないなら、その技術は定着していかない。では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

 いまの子どもたちには、この「伝わらない」という経験が、決定的に不足しているのだ。現行のコミュニケーション教育の問題も、おそらくここに集約される。この問題意識を前提とせずに、しゃかりきになって「表現だ!」「コミュニケーションだ!」と叫んだところで意味はない。

 では、どうすればいいのだろうか?

 子どもたちを千尋の谷に落とせと言っているわけではない。

 おそらく、一番いいのは体験教育だ。障害者施設や高齢者施設を訪問したり、ボランティアやインターンシップ制度を充実させる。あるいは、外国人とコミュニケーションをとる機会を格段に増やしていく。とにかく、自分と価値観やライフスタイルの違う「他者」と接触する機会を、シャワーを浴びるように増やしていかなければならない。

 ただこれには、予算や人員制約がある。セキュリティの問題もあって、なかなか子どもたちを簡単に学校の外に出すことはできない。

 ここに、演劇、あるいは演劇的な授業の大きな役割がある。

 演劇は、常に他者を演じることができる。

実際の体験教育ほどの効果はないかもしれないが、異文化、他者への接触をフィクションの力を借りてシミュレート(疑似体験)することができる。

 

『わかりあえないことから-コミュニケーション能力とは何か-』(著:平田オリザ

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.413 〜最近のつんどく状況〜

2017.05.10  【415日連続投稿】

 

最近のつんどく(積ん読)状況です。

 

積ん読とは、「書物を買っても積み重ねて置くだけで、少しも読まないこと」です。

 

・家族のゆくえ(吉本隆明)

・マチウ書試論/転向論(吉本隆明)

吉本隆明「言語にとって美とは何か」の読み方(宇田亮一)

吉本隆明”心”から読み解く思想(宇田亮一)

・最低で最高の本屋(松浦弥太郎)

・本業失格(松浦弥太郎)

・わかりあえないことから(平田オリザ)

・生きるための論語(安富歩)

・質問力-話し上手はここがちがう-(齋藤孝)

・中動態の世界-意志と責任の考古学-(國分功一郎)

・「私」を生きるための言葉(泉谷閑示)

・寄る辺なき時代の希望-人は死ぬのになぜ生きるのか-(田口ランディ)

・子どもの言い分おとなの聞きかた(平井雷太)

・見えない学校教えない教育(平井雷太)

・逝きし世の面影(渡辺京二)

・ぼくらのSEX(橋本治)

 

f:id:hiro22yasu13:20170510205122j:image

 

おわり。

本日のつれづれ no.412 〜自分は何者だろうか?〜

2017.05.09  【414日連続投稿】

 

5月3日に参加した寺子屋デイでのインタビューゲームの時、他人の自己紹介を聞いて思ったことから書きたいと思います。

 

 

「自分は一体何者なんだろう?」

 

中学生や高校生や大学生が進路を考える時に頭に巡るようなことだと思います。

 

いや、中学生や高校生や大学生に限らず「自分はこういった者です」と言える人なんて一握りではないのだろうか?

 

私自身も、自分という人間ってよく分からないものだなぁって未だ感じます。

 

以前(中学生や高校生や大学生)と今で「自分が何者か、どんな人間なのか、どう生きていくのか分からない」というのは、あんまり変わらないんですが、

分からないからといって、不安になったり無理に探そうとしたりすることがなくなったことが変わったことなんじゃないかと自分では思います。

 

なんでかっていうと、自分が何者であるかってのは大して問題じゃないんだと思うようになったからなんだと気付きました。

関わる人によって自分というのは、自ずと変化が起きるし、自分というものをしっかり持とうとするよりも、他人と関わっている時の自分の気持ちを正直に受け止められることの方が自分を知ることになるのではないかと思います。

 

というわけで、自分が何者であろうと今目の前にあることを取り組んでいけば自然と道は拓けていくのではないかと思っている次第であります。

 

おわり。

本日のつれづれ no.411 〜自然が美しいと思ったことより〜

2017.05.08  【413日連続投稿】

 

GWの時に沖縄に行ってきました。

 

車を少し走らせば海が見え、海に潜れば泳げない私でもまた潜ってみたいと思ってしまう美しい景色が

広がっていました。

 

一緒に沖縄を回った友人が「地球に生まれてきてよかったー!」と言っていましたが、まさにその通りだなぁと思います。

 

自然に触れ合うってことを日々の生活で忘れがちになってしまいますが、本当はとっても大切なことなんじゃないかと思っています。

 

読物つれづれでも、消化した『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(著:渡辺京二×津田塾大学  三砂ゼミ)という本で、渡辺京二さんがこんなことを話されていました。

 

 リルケという詩人がいますが、彼は人間はなんのために存在しているんだろうと考えたのね。人間は一番罪深い存在だという見方も当然一面ではありますが、ごく自然に言って、人間はあらゆる意味で、進化の頂点に立っている。人間は神様が作ったものじゃない。ビックバンから始まった宇宙の進化が創り出したのが人間という存在である。

 ではなんのために、この全宇宙は、この世界という全存在は、人間というものを生み出したのであろうか。

 その時に彼は世界が美しいからじゃないかと考えたんです。空を見てごらん。山を見てごらん。木を見てごらん。花を見てごらん。こんなに美しいじゃないか。ものが言えない木や石や花やそういったものは、自分の美しさを認めて欲しい、誰かに見てほしい、そのために人間を作った、そうリルケは考えたのね。宇宙は、自然という存在は、自分の美しさを誰かに見てもらいたいために人間を作ったんだというふうに考えたんだねえ。これは科学的根拠なんか何もない話で、学問的に考えると、特に理系の人は、そんなのは自然の目的論的解釈で、非科学的な哲学だというわけだね。でも哲学でけっこうなんだ。これは哲学なんだから。人間は、この全宇宙、全自然存在、そういうものを含めて、その美しさ、あるいはその崇高さというものに感動する。人間がいなけりゃ、美しく咲いている花も誰も美しいと見るものがいないじゃないか。だから、自然が自分自身を認識して感動するために、人間を創り出したんだ。

 そう思ったら、この世に存在意義がない人間なんか一人もいないわけ。全人間がこの生命を受けてきて、この宇宙の中で地球の旅人としてごく僅かの間、何十年か滞在する。その間、毎年毎年花は咲いてくれる。これはすごいことでありまして、たとえばうちの庭の梅の花も、多少時期は何十日か遅れることがあっても、必ず約束したかのように、毎年毎年咲いてくれます。そういうふうに毎年毎年花を見る、毎年毎年、ああ、暑かった、ああ、寒かったと言って一年えお送る、それだけ人間の存在意義はあるんです、この社会に出て行って、立派な社会貢献をしたり、あるいは自分の才能を持って名前を輝かしたりしなくても、ごく平凡な人間として一生を終わって、それで生まれてきたかいは十分にあるわけです。

 

おわり。

 

 

 

本日のつれづれ no.410 〜また明日から〜

2017.05.07  【412日連続投稿】

 

明日からドタバタと忙しい日々に戻るのだなぁと感じています。

 

そんなに嫌な感じはなく、目の前のやることをやるスタンスは変わらずやっていこうと思っています。

 

GWで思ったことなどは、またぼちぼち書いていこうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.409 〜教育を再考する 平井雷太氏〜

2017.05.06 【411日連続投稿】

 

《教育を再考する》

 

「教育とは

人が変わることではなく、

自分が変わること」と定義すれば

変わりたいと思っている人が

そこにいない限り、教育は成立しない。

つまり、教育するという行為は

教師がいくら教育をしているつもりであっても

教育される側が

意識している・していないにかかわらず

「教育されたい=学びたい」と思っていない限り

教育するという行為は成立しない。

 

そう考えると、

「教育とは

他者を教え、育てる行為というより

自分が何からでも教えを乞うことをし

それによって『自らを育てたい』という状態に

なることで成立するもの」と定義したほうが

より現実に即しているように思えるのだ。

 

教育するというように

教育という言葉を能動的にとらえることしか

考えることができなかったから

「教育する→教育される→洗脳される」と感じ

そこに体が反応して、それが

教育に対する嫌悪感につながっていたのだろう。

しかし、

「教育という営みは

そこに『自らを育みたい』という

自発的な思いと願いに支えられて

成立しているもの」と考えればよかったのだ。

つまり、このような前提があるとき教育が

「命の本然に向かう教育」になる。

 

「洗脳されたい」と思う人はいないだろうから

同じ「教育」という言葉でも

「教育される=洗脳される」という意味の「教育」と

「自らを育みたい=学びたい」という意味の「教育」の

違いは余りに大きい。

 

「自らを育みたい」と思っている人は

どんなものからでもどんな人からでも

学ぶことができると思っている人。

だから、自分だけ自分が育つことができないと

自覚しているから、絶えず

人が育つ場とチャンスを提供しようとする。

だから、「自らを育みたい」と思っている人のまわりで

人が育っていくのは当然の結果だといえるのだ。

 

『見えない学校・教えない教育』著:平井雷太

おわり。