名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.473 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第4章 -親和と礼節-①〜

2017.07.15  【481日連続投稿】

 

私が大学三年生の時インドに行ったときに多数の物乞を見かけました。物乞というのは、社会的に経済的・社会的にドロップアウトした人々なんだろうなと思っていましたが、江戸時代の物乞は、私がインドで見た物乞とは異なる物乞であったようです。

 

 日本に物乞がいるのは当然のことであり、何もおどろくべきことではないはずなのに、それが問題になるのはやはり、日本を天国視する言説がひろく流布していたからだろう。それに英人の場合、オリファントやオズボーンの記述の誤りを正さねばという意識が強かった。フォーチュンは言う。「ケンペルの告げるところでは、彼の時代には『帝国のあらゆる地方の道路、ことに東海道には無数の物乞が群がっていた』。エルギン卿使節団のあらゆる団員たちは、私の記憶が正しければ、川崎に訪れたさいに物乞を見なかったというので、このことの真実性を疑ったようだ。しかし、この場合、物乞はおそらく当局によって道路から排除されていたのだ。真実に従って私は、ケンペルの時代と同様今日でも、物乞は日本に大勢いて、しかもしつこいことを述べざるをえない。私が東海道を馬で通ったとき、『道傍に坐って物を乞うている』者が大勢いた。不具合やびっこや盲人たちで、私が通ると地にひれ伏して施しを乞うた」。

 オールコックも物乞にはこだわったひとりである。彼によれば、芝増上寺の近くの空き地には、「「いつも少数のやかましい物乞が陣どって」いた。「神奈川までの街道やその他のところにもたくさんいる」物乞は明らかに職業的で、「体の故障や不幸なことをできるだけあらわに示して、人に同情してもらおとする」この連中は、できものだらけのいやらしい手足を人目にさらしているか、あるいは普通道ばたの敷物の上に両手両膝をつき、髪は伸び放題で地面からほんのすこしだけ顔をもたげている」。彼は幸せな伊豆旅の帰途、藤沢あたりで「明らかに物乞と思われる道で死んでいる男のそばを通りすぎた」。「だれかが日本には物乞はいないといったり書いたりしてきたにもかかわらず」、「いかにまれとはいえ、貧困は存在していて、人が公道上で死ぬのである」。

 だがリンダウの見るところはいささか異なる。川崎大師でハンセン氏病の物乞が寄って来たことに触れて彼は言う。「一般的に言って日本には貧民はほとんどいない。物質的生活にはほとんど金がかからないので、物乞すらまさに悩むべき立場にないのである・・・路上や大通りで物乞に出会うことはめったにない。ほとんどいつも寺院の周りにたむろしているのが見られる」。つまり、物乞は聖域に住みつく存在であったのだ。1871年、英学校教師として熊本入りしたジェーンズは、橋を渡るごとに、そこにたむろしている物乞の叫び声を聞いた。いうまでもなく、橋は辻と同様、一種の宗教的聖域である。リンダウは「彼らはいわば不純なるものと見なされている特別の階級に属しているのだ」と言っている。

 つまり非人・物乞は文化的に徴しづけられた存在であり、寺院や街道や橋という特定の領域に囲いこまれていたのであって、都市や村落を常徘徊する存在ではなかった。だとすると先に紹介したようにブラックが、日本の一番気持ちよい特徴は物乞のいないことだと書いている理由もほぼ推測がつくというものだ。彼はその理由を、警察が物乞をみなつかまえて施設に収容し、保護するからだと言っている。これが非人制度のことを指すのかどうかは検討を要するだろうけれど、とにかく徳川期の物乞は、欧米人観察者が故国で知っていた工業化社会における物乞とは、異なる社会文化的文脈に属していた。それが社会てき分解過程にあった中国の物乞とも異なる存在であったことは、オールコックが「とはいえ、かれらは、隣国の中国におけるように無数にいるとか、餓死線上にあるのをよく見かけるというような、状態にはまだまだほど遠い」と言っていることでも明らかだ。彼によれば、日本の物乞はその態度からして「われわれは物乞として生きてゆかねばならぬ。だからといってあわれっぽくなる必要はない」とでも言っているようだった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p149〜151

 

おわり。

本日のつれづれ no.472 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章-簡素とゆたかさ-④〜

2017.07.14  【480日連続投稿】

 

 彼(モース)は1877年、日光を訪ねた帰りに通った栃木県の寒村についてこう書いている。「人びとは最下層に属し、粗野な顔をして、子供はおそろしく不潔で、家屋は貧弱であったが、然し彼らの顔には、我国の大都市の貧民窟で見受けるような、野獣性も悪性も、また憔悴そた絶望の表情も見えなかった」。ある一人の女など、食事中のモース一行の横に座りこみ「我々が何か口に入れるごとに、歯をむき出しにしてニタリニタリと笑ったり、大声を立てて笑ったりした」。つまり彼女はたしかに野卑ではあったが、あっけらかんと陽気だったのである。

 彼は『日本の住まい』で、この知見をさらに一般化して繰り返す。「都市にあっては、富裕階級の居住する区域は、わがアメリカにおけるほどには明確なる一線を画していない。・・・ほとんどの都市において普通に見られることは、もっとも貧困な階層の居住する区域に近接して富裕階級の邸宅が建っている、という事実である。東京では、極端に粗末な小屋が櫛比して立ち並んだ町通りや横町があり、そこにはもっとも貧困な階層に属するひとびとが住んでいる。・・・しかしながら、このような貧民区域であっても、キリスト教圏のほとんどすべての大都市に見られる同類の貧民区域の、あの言いようのない不潔さと惨めさと比較するならば、まだしも清浄なほうである。これは確かなことだが、日本の金持ちは、貧困階級を遠方に追いはらってしまうために、自分の邸宅の周辺にある土地を残らず買収しようなどは、ふつうは思わないのである。貧困階級が近くに居住したところで、いっこうに苦にならないのである。実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない」。「「あるタイプの家屋がそこの住人の貧困および無気力に封じこめられた生活状態を象徴し、また、あるタイプの家屋うがそこの住人の向上意欲および豊かさ溢れる生活状態を象徴している、とする識別方法」は、日本の家屋にはあてはまらない。日本にも立派な家屋敷はあるが、それは何百軒に一軒で、そのほかは雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいる。しかし「そのような小屋まがいの家に居住している人々は根っから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」。つまり、「少なくとも日本においては、貧困と人家の密集地域が、つねに野卑と不潔と犯罪とを誘発するとは限らないのである。

 モースは、日本における貧しさが、当時に欧米における貧困といちじるしく様相を異にしていることに、深く印象づけられたのだった。日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものには存在しない」というチェンバレンの言明もモースとおなじことを述べている。つまり、日本では貧は惨めな非人間形態をとらない、あるいは、日本では貧は人間らしい満ちたりた生活と両立と彼は言っているのだ。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.126.127

 

おわり。

本日のつれづれ no.471 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ-③〜

2017.07.13  【479日連続投稿】

 

ものに溢れている現代に、ものがあれば幸せってわけじゃないよと言っているかのよう。
ものに囲まれた生活をしていた当時(幕末〜明治初期)の欧米人が、日本人の暮らしを見て思うことは、現代の日本人が当時の日本人の生活を見て思うことなのではないかと思いました。

 

 日本人の家には家具らしきものがほとんどないというのは、あらゆる欧米人が上陸後真先に気づいた特徴である。たとえば、上陸後三日目に横浜の日本人町を見物したボーヴォワルは書く。「家具といえば、彼らはほとんど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿が皆きちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何の隠し事のない家に住むかぎり、何ひとつ欲しがらなかったあのローマ人のようにー隣人に身を隠すものなど何もないのだ」。

 オールコックには、この家具らしきものなしですむ生活というのは、ある意味で羨ましい限りに思われた。「かりにヨーロッパ人同士の夫婦が、ソファや椅子、ならびにそれに付き物のテーブルなどのない家を借りて、清潔な畳の上に横たわることに耐えられるとすれば、年収四百ポンドで結婚生活が営めるかどうかという論争などたちどころに解決して、誰しもが結婚できる見通しをえるだろうことは確実だ。日本においては、若い夫婦が家具屋の請求書に悩まされるようなことはありえない」。むろんこの口調には皮肉がある。彼は日本では、畳を敷いた家と、互いに持ちよる蒲団や衣裳箱と、それに鍋と半ダースの椀やお皿と、大きなたらいがあれば、みごとな世帯ができあがると言う。「牧歌的な単純な生活とは、このような生活のことを言うのであろう」と彼は書く。しかし実は彼が言いたいのは、「われわれが安楽に暮らすために必要不可欠だと考えているもの」が、日本人の生活にはまったく欠如しているということなのだ。ハリスに至っては「日本人の部屋には、われわれが家具と呼ぶようなものは一切ない」とまで書いている。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.120.121

 

おわり。

本日のつれづれ no.470 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ-②〜

2017.07.12  【478日連続投稿】

 

 江戸時代は、幕府が各藩に重い税をかけていたイメージがあります。小学生で習う参勤交代も「藩の財源を削るため」と習った気がします。そのような中での、人々の暮らしは天領(幕府管轄の土地)と藩領とでは金銭面での大きな違いがあったそうです。しかし、その中でも藩領の人々は幸福に暮らしていたという部分を抜粋しました。

 

 鉱山技師として幕府から招かれ、1862年から翌年にかけて北海道の鉱床調査を行なったハンペリーは、第二回踏査旅行の際幕領から津軽藩領へ入って、住民の状態の違いに愕然とせざるをえなかった。「わたしは津軽藩領地の住民たちに比べ、幕府直轄地の住民たちの境遇がはるかに豊かであることに衝撃を受けた。われわれが通りかかっている地方では、収入源に対し、不相応な重税が課せられているとのことで、村々は後輩の様相が窺われ、住民たちには浪費の気配があった。両者の違いは、地理上の境界線のように画然と引かれていた。原因は自然ではありえない。なぜなら、双方にとって唯一の収入源である海は、両者に差別なく恵みをあたえているはずだから」。

 パンペリーは根本的理由を「大君制」に求める。つまり、参勤交代を初めとする幕府の諸候に対する窮乏化政策が、このような違いを生んだのだと考える。その当否は、いまはあげつらうまい。また、収奪をゆるやかにして領民の幸福を実質的に保障した幕府が慢性の財政難に陥り、領民の収奪を強めて富強化した西南諸藩によって打倒された歴史の皮肉についても、いまは問うまい。私たちはただ、このような幕領と大名領の違いを踏まえながら、パンペリーが「日本の幕府は専横的封建主義の最たるものと呼ぶことができる。しかし同時に、かつて他のどんな国民も日本人ほど、封建的専横的な政府の下で幸福に生活し繁栄したところはないだろう」という、まさにオールコック的な概括を下していることに注目しておこう。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』 p.107.108

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.469 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ- ①〜

2017.07.11  【477日連続投稿】

 

 日本が地上の楽園などであるはずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、その根拠はどこに求められるのだどうか。当時の欧米人の記述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間の存するあまりの落差にしばしば茫然たらざるをえない。

 1856年8月日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。

 「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。むろんハリスはこの村がゆたかだとは言っているのではない。それは貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。

〜中略〜

 彼は下田の地に有名な『日本誌』の著者ケンペルが記述しているような花園が見当たらないことに気づいていた。そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かではなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにおれなかったのである。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいでけは食べ、着物にも困っていない、それは家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。これは1856年11月の記述であるが、翌57年6月、下田の南西方面に足を踏み込んだときにも、これはこう書いている。「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を1人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい、彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.100〜102

 

おわり。

本日のつれづれ no.468 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第2章 -陽気な人びと- ④〜

2017.07.10  【476日連続投稿】

 

 オールコックは封建的日本の忌憚ない批判者であって、日本があたかも楽園であるかのようなイメージが普及していることに常に苦々しい思いを抱いていた。「長い間流布されてきたユートピア的な日本観は、日本についてよく知るにつれて破壊される」べきものだというのが彼の信念だった。彼によれば、日本は遠く離れて見ればこそ楽園で、実際そこに住んでみれば。それを「不魔殿」として書きたくなるのも「怪しむに当たらない」ような国だった。「私としてはその両極端に陥ることはでるだけ避けたい」と断っているものの。幕府官僚の「欺瞞」と排外主義的な浪人の脅威に日頃悩まされていた彼が、内心どちらの評価に加担したのかったか想像にかたくない。ところが、その彼が、これは伊豆地方を訪れたときのことだが。村々のゆたかさと美しさに感動するあまり、「エデンの園」なる形容をうっかり用いてしまったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』 p.90.91

 

おわり。 

本日のつれづれ no.467 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第2章 -陽気な人々-③〜

2017.07.09  【475日連続投稿】

 

江戸時代の大人が子どものように無邪気だった様子が読み取れる一部を抜粋しました。

 

1870年から74年まで福井藩校や東京の大学南校で教師をしたグリフィスにとって、「成人して強壮な身体の日本人が、西洋人なら、女の子はエプロンをつけ男の子は巻き毛を刈る年になると、見向きもしないような娯楽に夢中になっている」のはおどろきだった。「この二世紀半の間、この国の主な仕事は遊びだったといってもよい」と彼は言う。「日本人のように遊び好きといってよいような国民の間では、子供特有の娯楽と大人になってからの娯楽の間に、境界線を引くのは必ずしも容易ではない」。もともと牧師志望で、帰国後わざわざ神学校に学んで牧師となったグリフィスは、こういう日本人の子どもっぽい遊び好きに好意的だったわけではない。だが、海軍将校・商人・ジャーナリストという多彩な経歴をもつブラックの眼には、羽根をついて顔を墨を塗り合っている日本の大人たちは、まことに愛するべきものに映った。「そこは、ただ喜びと容器があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合日本人の笑いは、他のどこで聞かれる笑い声よりもいいものだ。彼らは非常に情愛深く親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見てもうれしがる」。

 『日本その日その日』の著者モースの言葉は、日本人の子どもらしい無邪気についての、さながら総括である。

 「私はこれらの優しい人々を見れば見る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供達のことを思い出す。ある点で、日本人はあたかもわが国の子どもじみているように、子供らしい。ある種の類似は、まことに驚くばかりである。重い荷物を持ち上げたり、その他何にせよ力のいる仕事をする時、彼らはウンウンいい、そしていかにも『どうだい、大したことしているだろう!』というような調子の、大きな音をさせる」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p87〜88

 

おわり。

本日のつれづれ no.466 〜よくない時も大切〜

2017.07.08  【474日連続投稿】

 

これは失敗だったって思うことは、自分自身が思っているに過ぎないことが大半。

 

というより、自分だけの判断ではそもそも良し悪しなんて分かりっこない。

 

時には、やってしまったなという感覚を持つことは大切なのかもしれない。

 

自分の盲点、驕りを見直させてくれる機会だなぁと思っていよう。

 

おわり。

本日のつれづれ no.465 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第2章-陽気な人びと-②〜

2017.07.07  【473日連続投稿】

 

リンダウも長崎近郊の農村での経験をこう述べている。私は「いつも農夫達の素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持って来てくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。・・・最も大胆な者は私の服の生地を触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げていくこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると・・・『大変有り難う』と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第である。私が遠ざかって行くと、道のはずれ迄見送ってくれて、殆ど見えなくなってもまだ、『さようなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠った声が聞こえるのであった」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.79

 

ここで登場するスイス通商調査団に団長リンダウは、他にもこんなことを言っている。

「この民族は笑いの上戸で心の底まで陽気である」

「日本人ほど愉快になりやすい人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めると理由もなく笑い続けるのである」

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.76

 

おわり。

 

 

 

本日のつれづれ no.464 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第2章 -陽気な人びと- 〜

2017.07.06  【472日連続投稿】

 

 十九世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうであろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。ときには辛辣な日本批判をしたオールコックでさえ、「日本人はいろいろな欠点を持っているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第二回遠征のさいに下田に立ち寄り「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの四年後に下田を訪れたオズボーンには、街を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうでありうるよりも、幸せで煩いから解放されているように見えた」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』 p.74

 

 江戸時代といえば、「士農工商」と言われる身分制度の時代であったはずという印象が中学高校の日本史の授業では学んだ記憶があります。無事が一番偉い世の中であり、身分制度があったと聞くとどうも「下の身分は辛い暮らしや苦しさを感じて生きたのだろう」と連想してしまっていた自分がいました。しかし、本書は多くの外国人が「日本人は幸福そうに見えた」と証言していると記しています。その幸福そうだったのは、果たして武士のみのことを言っているのか、それとも農民なども含んで言っているのか、どうなのだろう。

 

明日以降に、迫っていこうと思います。

 

おわり。