名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.493 〜500日間ブログを書き続けてみて〜

2017.08.05  【502日連続投稿】

 

先日、2016年3月22日起算でブログを用いて毎日書くということを続けて、500日が経ちました。

 

毎日書くということは、当たり前になっている感覚がありますが、はやり毎日何を書こうかと思いを巡らせるので、当たり前になっているからといって簡単にできることになっているわけではないんだと思います。

 

ただ、自分の気持ちをスッと書き言葉にしたり、公開することへの配慮と人の目を気にすることはほとんどなくなってきています。

 

誰かに「伝えたいこと」と「伝わること」は全く別物なんだということが腑に落ちると、大して人の目は気になり随分楽です。

 

2017年4月からは、極力仕事のことは書かずにやってきて、振り返ると仕事以外の面に目を向けることができるなと思っています。

どうしても昨年度の平日は仕事のことで頭がいっぱいになっている状態でしたが、今年度は書くこと通じて、仕事以外に目を向けるので、頭の中でいいバランスを取れているのではないかと思います。

頭の中で余白を作っておくとやはり、急な変更であったり新しく舞い込んでくることに対して、スッと向き合いやすくなる気がしています。

とりあえず、やってみたことがこんな意味があったんだと振り返ると自分なりの意味づけが生まれるんですね。

 

誰かに向かって書こうとするとそれはそれで素敵なことなんだけど、とっても難しいです。

難しいってのは、先程にも書きましたが、伝わるかどうかを意識し過ぎると難しくなるんだと思っています。

 

なんでかというと、言葉一つとっても人によって受け取り方は様々だから、いくら分かりやすく言葉を選んだとしても100%自分の伝えたいことが伝わることはまずありえないからです。

 

だから、伝わらないことを残念がったり悲観したりする必要は全くないんです。

「伝わらないからこそ伝える」という一見矛盾しているように思えることを、自分の中でしっかりと腹に落とすことができたなら、伝わることに重きを置かなくて済むんだと思っています。

 

要は、分かってもらうことに期待しすぎず、自分が伝えたいなら伝えよう。

 

そんなことを500日経った今現在は思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.492 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章-自由と身分-④〜

2017.08.04  【501日連続投稿】

 

 これは明治中期になってからのことだが、アリス・ベーコンはこう言っている。「自分たちの主人には丁寧な態度をとるわりには、アメリカとくらべると使用人と雇い主との関係はずっと親密で友好的です。しかも、彼らの立場は従属的でなく、責任を持たされているのはたいへん興味深いことだと思います。彼らの態度や振舞いのなかから奴隷的な要素だけが除かれ、本当の意味での独立心を残しているのは驚くべきことだと思います。私が判断するかぎり、アメリカよりも日本では家の使用人という仕事は、職業のなかで良い地位を占めているように思えます」。召使が言いつけたとおりでなく、主人にとってベストだと自分が考えるとおりにするのに、アリスは「はじめのうちたいそう癪にさわ」った。しかし何度も経験するうちに、召使の方が正しいのだと彼女は悟ったのである。

 彼女は主著”Japanese Girls and Women”においてこの問題をもっとくわしく論じている。「外国人にとって家庭使用人の地位は、日本に到着したのそ日から、初めのうちはたいへん当惑の源となる。使える家族に対する彼らの関係は一種の自由がある。その自由はアメリカでならば無礼で独尊的な振る舞いと見なされるし、多くの場合、命令に対する直接の不服従の形をとるように思われる。・・・・・家庭内のあらゆる使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかないならば、その命令は実行されない。日本での家政はつましいアメリカの主婦にとってしばしば絶望の種となる。というのは彼女は自分の国では、自分が所帯の仕事のあらゆる細部まで支配するかしらであって、使用人には手を使う機会的労働だけしか与えないという状態に慣れているからだ。彼女はまず、彼女の東洋の使用人に、彼女が故国でし慣れているやり方で、こんな風にするのですよと教えようとする。だが使用人が彼女の教えたとおりにする見こみは百にひとつしかない。ほかの九十九の場合、彼は期待どおりの結果は成し遂げるけれど、そのやりかたはアメリカの主婦が慣れているのとは全く異なっている。・・・・・使用人は自分のすることに責任をもとうとしており、たんに手だけではなく意志と知力によって彼女に仕えようとしているのだと悟ったとき、彼女はやがて、彼女自身と彼女の利害を保護し思慮深く見まもろうとするする彼らに、自分をゆだねようという気になる。・・・・・外国人との接触によって日本人の従者が、われわれが召使の標準的態度とみなす態度、つまり黙って主人に従う態度を身につけている条約港においてさえ、彼らは自分で物事を判断する権利を放棄していないし、もし忠実で正直であるならば、仮にそれが命令への不服従を意味するとしても、雇い主のために最善を計ろうとするのだ」。

 

おわり。

本日のつれづれ no.491 〜らくだプリントを1年やってみて〜

2017.08.03  【500日連続投稿】

 

2017年8月3日でらくだプリントを初めてちょうど1年が経ちました。

 

らくだプリントを説明するのは難しいので、らくだプリントってなんだ?という方はこちらのリンクをご覧いただければと思います。

 

らくだメソッドの教材|どの子にも学力がつく らくだメソッド 

 

そして、過去に書いた私の振り返り記事。

 

本日のつれづれ no.234 〜らくだプリントで初めて不合格になりました◎〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 本日のつれづれ no.249 〜行き過ぎた自分を引き戻すということ〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

本日のつれづれ no.355 〜自分から見る自分は、時に歪んで見ている〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 本日のつれづれ no.426 〜算数プリントのミスが人間関係を見つめるきかっけに〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 

一年経ってどうかなぁと振り返ると、「ゆるみ」という言葉がまず浮かんできました。

 

らくだプリントを続けるということは、

学習に対してだけでなく、大袈裟にいうと生きることに対して肩の力を抜くってことが今の私が最も大切に思うことなんだと思います。

また、らくだプリントに限ったことでなく、色んなことに繋がっているのだろうという見解です。

 

私の場合、ブログを毎日書くということも同じような意味合いでもありますが、らくだプリントを毎日する方がわたしにとってハードルが高いです。毎月欠かさず取り組めた月なんてほとんどないでしょう。机があって、鉛筆があって、計測するタイマーがなければ、らくだプリントは取り組めません。(それに対して、ブログはスマホさえあれば書けますから、私にとって続けるということにおいては、らくだプリントよりもハードルが低いです。)

 

気持ちよくできたと思っても間違いが多い日。

どーしてもやりたくない日。

酔っ払って帰ってきてもやってしまう日。

速さを意識し過ぎてミスが多い日。

できなかったプリントが急にできてしまった日。

 

この1年間、らくだプリントを通じて色々な自分に出会ってきました。

らくだプリントを通して、自分を見つめることをしてきました。

評価に縛られない環境だからこそ、見えてくることがたくさんあるものだなぁと思います。

縛られてる自分を緩ませられるのは、自分自身です。

しかし、縛られてること自体に気付かないことがほとんどではないだろうか。

らくだプリントは、そんな縛られてる自分を鏡のように自分に見せてくれる。

やり続けることで、そんな自分を少しずつ緩めるにはどうするかってことを自然と分かってくる。私はそんな気がしています。

 

そんなことをちょうど1年経った2017年08月03日に思いましたとさ。

今は、小学6年生の途中なので、今年中には小学生過程は終えたい気持ちでいます。

これからも淡々とらくだプリントで自分と向き合う日々が続きそうです。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.490 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章-自由と身分-③〜

2017.08.02  【499日連続投稿】

 

 専制下における民衆の自由と満足というオールコック以下の所見には、実は先從があった。1820年から29年まで、出島オランダ商館に勤務したフィッセルが、1833年に出版した著作には、すでに次のように述べられていたのである。「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただの名目だけであって実際には存在しない」。「自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している」。日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない・また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.275

 

おわり。

本日のつれづれ no.489 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章 -自由と身分-②〜

2017.08.01  【498日連続投稿】

 

 大名行列の前に平伏する庶民を見ればわかるように、世襲貴族と一般大衆のあいだには越えがたいへだたりがある。「だが、ほかならぬこの理由があるのかも知れない」とオールコックは考える。ヨーロッパの封建時代でも、人民が服従したのは、王や貴族の暴力が彼らまで到達するのがまれだったからだ。嵐が高い木を痛めつける場合でも、ずっと下の灌木は無事なことが多い。日本でもそういう事情は同一だろう。「外見的な服従は皮ひとえのものにすぎないのかも知れず、形式的外見には一般民衆の自由があって民主的な制度をより多くもっている多くの国々以上に、日本の町や田舎の労働者は多くの自由をもち、個人的に不法な仕打ちをうけることがなく、この国の主権をにぎる人々によってことごとに干渉する立法を押しつけられることもすくないのかも知れない。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.263

 

おわり。

本日のつれづれ no.488 〜キャンプでの一コマ〜

2017.07.31  【497日連続投稿】

 

7月29.30日に愛知県の知多郡美浜町でキャンプをしました。

 

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場所は、中日小野浦キャンプバンガロー村。

 

 バンガローが立ち並び、私たち以外にも家族ぐるみで来る方々が多くいらっしゃいました。

 

子どもが私たちの周りを水鉄砲しながら駆け回ってたら、

隣の男性グループから罰ゲームで一発芸を私たちに披露してくれたり、、、笑

 

バンガロー「村」なんだなぁと感じました。

 

そんなキャンプ中に、子ども同士のやりとりを見ていて、印象に残っている一コマがありました。

 

水場で洗い物をしていると、男の子が水鉄砲の水を補充しにやってきました。

それにつられるように、その男の子の友達は水鉄砲に水が満タンの状態で水場にやってきました。

 

水を補充してる男の子は、自分が狙われていることに気付いて

「ここは安全な場所だから、攻撃ダメだよ」

と狙ってる子に伝えます。

 

しかし、狙ってる子はお構いなく攻撃。

おまけに水鉄砲を使うのではなく、水鉄砲の水が溜まってるタンクを使った豪快な攻撃でした。

 

結構豪快にやられてたので、「こんなことされたらケンカになってもしょうがないな〜」と思って洗い物をして続きを見守りました。

 

すると、攻撃された男の子は、怒るどころか

「そんなのつまらないでしょ?」と軽く相手を一蹴。

そのまま他の子の元へ帰っていきました。

 

この一コマしから見てないので、子どもたちがどんな関係性があって、どんなルールで遊びをしてたのか全く知りませんが。

 

私は「この一コマを見れてよかったなぁ」という気持ちになりました。

 

大人が知らないところで、子どもは子どもなりに他人と関わっているんだと思い、大人が干渉しすぎる必要はないなと改めて感じる一コマであり、色々教えてもらいました。

 

次回は、9月にキャンプしたいと思っております♪

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.487 〜私であること。私でないこと。〜

2017.07.30  【496日連続投稿】

 

私が私であり続けようとしても

 

誰がと一緒にいると

 

私ではなくなる。

 

誰かと一緒にいるのに、私であろうとしすぎると苦しむんだなぁ。

 

誰がと一緒にいる時は、その時新しい私が生まれる。

 

その新しい自分を受け入れ、愛する。

 

それだけでいい。

 

だから、こんな自分は自分じゃないと思わなくていいし、苦しむこともない。

 

おわり。

本日のつれづれ no.486 〜平井雷太『いじめられっ子のひとりごと』②〜

2017.07.29  【495日連続投稿】

 

悪い環境に染まらないように

環境を整備するから

悪い環境の染まる子どもが育つのだ

悪い環境に染まらない子は

悪い環境の中でこそ育つ

 

平井雷太『いじめられっ子のひとりごと』より

 

おわり。

本日のつれづれ no.485 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第7章 -自由と身分- ① 〜

2017.07.28  【494日連続投稿】

 

 古き日本を実見した欧米人の数ある驚きのなかで、最大のそれは、日本人民衆が生活にすっかり満足しているという事実の発見だった。それはいかにも奇妙なことに彼らには思われた。なぜなら彼らは、日本は将軍の専制政治が行われている国で、民衆は生活のすみずみまでスパイによって監視され、個人の自由は一切存在しないと聞かされていたし、実際に来訪して観察したところでは、それはたしかにこの国の一面出会ったからである。オリファントは一方では「日本人を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の組織を支えている大原則は、個人に自由の完全な廃止であるということが、いっそう明白になってくる」と言いながら、他方では「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているようにみえることは、驚くべき事実である」と書かざるをえなかった。

 いかに奇妙であろうと、いかに矛盾と思われようと、日本人大衆の顔に浮かぶ紛れもない満足感と幸福感は見誤りようがなかった。彼らの誰もが驚きをもって認めたように日本人大衆には礼節と親切がゆきわたっていたが、彼らが幸福であり生活に満足していればこそ礼儀正しく親切であるのだということに気づかねば、彼らはそれこそ盲目というものであった。従って彼らはこの一見矛盾と思われる現象の由って来るところを解明しようとして、いっせいに考察を試みたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.262

 

おわり。

本日のつれづれ no.484 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第6章 -労働と身体-⑤〜

2017.07.27  【493日連続投稿】

 

 スエソンは日本人のような容貌は好ましいとはとてもいえないが、そのいやな印象は、「栗色に輝く眼から伝わってくる知性、顔の表情全体からにじみ出てくる善良さと陽気さに接して思わず抱いてしまう共感によって、たちまちのうちに吹きとばされてそまう」と感じた。彼の目にも上層下層の差は歴然たるものがあった。「下層の労働者階級はがっしり逞しい体格をしているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の男はやせていて、往々にして貧弱である」。上流の者たちは「日本的醜悪の顕著なる特質をこれ見よがしに備えているのだが常だったが」、そのかわり手足は整っていて、それは注意をひくような動作を好んですることに彼は気づいた。メーチニコフは日本人の外貌には「豊かな多様性」があり、そのために観察者はこれまで矛盾した記述を残して来たのだと言う。「たれさがった耳と低い鼻、巨大な口をしたほぼ真四角の顔があるかと思うと、すぐ隣にはロンバルディアの美女やレオナルド・ダ・ヴィンチのマドンナを思わせる裁細優雅な瓜ざね顔(主として女性)がいて、見るものを驚かす。・・・くぼんだ胸とややつき出た腹、湾曲した細い足の都市住民とならんで、背こそ低いがじつは均斉のとれた平民を見かけることもある。彼らの力あふれる四肢は、ブロンズ彫刻のようで、そのいなせな姿は、セビリアの民主的街区の伊達男をほうふつさせたものである」。

 身体がある社会の特質とそれによって構造化された精神の表現であるとすれば、欧米人の眼に当時の別所や人力車夫や船頭や召使いの身体が、美しく生き生きとしたものに映ったという事が古き日本の社会で、ある意味で自由で自主的な特質をもった労働に従事していたのだという、従来の日本史学からすれば許すべからざる異端的仮説を成立可能ならしめるものであるかも知れない。注意しておきたいのは、日本労働大衆についてのこういう意外な記述がみられるのは、幕末から明治初期の記録に限られることだ。だとすると、江戸時代の労働大衆は自由な身体の持主だったのである。なぜ彼らの身体は自由で生き生きとありえたのだろうか。われわれの考察はおのずと当時の身分社会の構造へ導かれる。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』  p.256〜258

 

おわり。