名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.535 〜【寺子屋主催】第6回インタビューゲーム4時間セッションに参加して〜

2017.09.17  【545日連続投稿】

 

本日は、私がらくだプリントやインタビューゲームなどをやっている場で名古屋市中村区本陣に所在する寺子屋塾で第6回インタビューゲーム4時間セッションに参加してきました。

 

新しく私が住んでいるシェアハウス「サムハプ」に住みはじめたピーターさん(廣野順一さん)も連れて参加してきました。台風等の影響もあり4名の参加と若干少なめでしたが、とても濃密な充実した時間となりました。

 

《そもそもインタビューゲームって何⁇と思われる方へ》

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インタビューゲームについて - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ 

 

組み合わせは、まさかのピーターさんとでした。 

住みはじめて、夜によく話している間柄で何を聞こうかなと思いながら聞きました。

毎度同じくあっという間インタビューの時間、自己紹介シートを書く時間が過ぎ、振り返りに移りました。

今回は僕にとって重要な気付きが多々ありました。

 

【誤字脱字を気にしなくていいってルールは案外とても重要】

インタビューゲームはお互いインタビューをした後に、相手になりきって自己紹介文を書きます。その時のルール(注意事項)の一つに「誤字脱字は気にしなくて構いません。分からない漢字はひらがなで大丈夫です」というものがあります。実は、今まで私はこのルール(注意事項)を軽視していたのですが、今回これは非常に重要なルール(注意事項)であると気付きました。

 その理由として、まず今回私が書いた自己紹介文が誤字脱字のオンパレードです。普段のブログから誤字脱字が多々ある私ですが、今回のインタビューゲームも誤字脱字がたくさんありました。オーストラリアをオーストリアと書いてしまうなど、そりゃひどいもんでした。そこで私が言いたいのは、「誤字脱字してもいい」というような自己擁護のことではなくて、ちゃんと誤字脱字なく完璧な文章を書かなきゃという自己規制が「純粋な自分の気持ち」や「素直な気持ち」を出せない要因になっているのではないかと思うのです。もちろん、誤字脱字はない方が良いです。社会人もなれば、誤字脱字は恥ずかしいことという認識はより強くなります。

 インタビューゲームだからこそ、気にせず書いたらどうなるかやってみようとなるわけです。書くときは、「目の前に相手が話しているかのように、勢いを持って書きましょう」ということを伝えます。考えるよりも先にペンが走るように思ったことを素直に文章にすることを経験するためには、このルール(注意事項)がとても重要な役目を果たしているのだと気付かされました。

 

もう一つの気付きも書くと長くなってしまうので、また明日書こうと思います。

一旦、今日はここで終わります。

 

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おわり。

 

本日のつれづれ no.534 〜やっぱり人は忘れられない限り生きていると思う〜

2017.09.16  【544日連続投稿】

 

今日は、大学時代のサッカー部の集まりで亡き友人の実家へ行ってきました。

 

彼は、大学2年生の時に天国に行ってしました。

 

それから毎年彼の命日が近いこの時期にあの頃のチームメイトで彼の実家に集まることが続いています。

 

チームメイトのほとんどは、社会人になり母校の大学がある愛知県から離れている人も多くいる状況ですが、いつも駆けつけてくれる人がいるので懐かしい温かい時間が流れます。

 

久しぶりに会うので近況報告やら懐かしい話をしているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。

彼の家族は、いつも手厚いおもてなしで今日も手作りの料理がたくさん出てきてお腹いっぱいです。

 

 特に、彼の話がたくさん出るわけではないけど、彼が中心にいる感じがずっとしていました。

なぜかっていうと、やっぱり彼がいるから今こうやって集まっているということを全員が思っていたからなんじゃないかなぁと思うからです。

そう考えると、やっぱり彼は僕らの中でも生きてるって感覚になるわけです。

いなくても中にいる。

もう一生会うことはできないけれども、

僕らはたくさん大切なものを彼からもらって生きていくんだろうなということをわかってる。

 

彼の家族は、僕らを息子のように成長を見守って下さっている。

 

こんな繋がりを大切にしていきたいとは言わない。

もう僕らはすでに大切な繋がりを大切にしてるんだと思いました。

 

おわり。

本日のつれづれ no.533 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第13章-信仰と祭-②〜

2017.09.15  【543日連続投稿】

 

 「”宗教ーキリスト教徒が知るような宗教において不可欠とされるものを伝え保存すること、それによって心の最も高い願望と、知性の最も高貴な着想とをかき立てること、迷信の力を削ぎ寛容を説くにとどまらず、生きた信仰と行動への正しい動機、つまりは人間性に許された最高のものを最優先の地位につけること”ーこれこそが文明であるとするならば、日本人は文明をもたない」。このように言うときオールコックキリスト教文明以外の文明のありようを頭から否定しているのではない。だが、彼がキリスト教文明を最高の文明と考えていたのは確実である。そしてもし宗教がこのようなものとして定義されるならば、日本の宗教がおよそ宗教の名に値せぬ迷信と娯楽の混合物に見えるのはあまりに当然だった。オールコックだけのことではない。当時の欧米人観察者の大多数は、神との霊的な交わりによって、個人の生活と社会のいとなみにより高い精神的水準がもたらされているものとして、宗教を理解していたのである。すなわちそれは人間性の完成と道徳的進歩という十九世紀的理念に浸透された宗教観だった。そんなとほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.532~533

 

おわり。

本日のつれづれ no.532 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第13章-信仰と祭-①〜

2017.09.14  【542日連続投稿】

 

 リンダウは「宗教に関しては、日本人は私の出会った中でも最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。彼らは愚かな怠け者で、教義についても何も知らない。仏教神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。リンダウの所見は文久年間の見聞にもとづく。スエンソンも言う。「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。私のそのような質問はたいてい、質問をそらすような答えか、わけのわからない答えしか返ってこなかった。時に立ち入って聞き出すと、そのうちの何人かは、戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ、などと語ってくれた。・・・社会の上層部、特に知識人の間には、神道にも仏教にも与しない開けた日本人が数多く見出せる。彼らは外見的な神仏信仰を受け、孔子の教えの規範に多少の修正を加えたものに従っている。・・・・その信奉者はふつう、無神論者とみなされている」。これは慶応年間の観察である。チェンバレンは「日本人に、あなたの宗教は何か、仏教神道かとたずねると、まったく困った顔つきをするので」おもしろく思った。しかしこれはけっして、明治という時代の新現象ではなかったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.529~530

 

おわり。

本日のつれづれ no.531 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第12章 -生類とコスモス-④〜

2017.09.13  【541日連続投稿】

 

 彼らは、人間を特別に崇高視したり尊重したりすることを知らなかった。つまり彼らにとって、”ヒューマニズム”はまだ発見されていなかった。オールコックが「社会の連帯ということがいかに大切かということを忘れる恐れのある人は、日本にきて住めばよい。ここでは、そういうことがまったく知られていない」と言うのはそのためである。彼は日本人の虚言癖に憤慨してこう書いているのだが、当時の日本では、虚言をいちいち神経症的に摘発して真実を追求せねば、社会の連帯は崩壊するなどと考えるものは、おそらくひとりもいなかった。彼らは人間などいい加減なものだと知っていたし、それを知るのが人情を知ることだった。そして徳川期の社会は、そういう人情のわきまえという一種の連帯の上にこそ成立しえた社会だった。

(中略)

なるほど日本人は普遍的ヒューマニズムを知らなかった。人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ一人一人にかけがえのない価値があり、したがってひさんの悲惨も見過されてはならぬという、キリスト教的博愛を知らなかった。だがそれは同時に、この世の万物のうち人間がひとり神から嘉されているという、まことに特殊な人間至上観を知らぬということを意味した。彼らの世界観では、なるほど人間はそれに様がつくほど尊いものではあるが、この世界における在りかたという点では、鳥や獣とか隔たった特権的地位をもつものではなかった。鳥や獣には幸せもあれば不運もあった。人間もおなじことだった。世界内にあるということはよろこびとともに受苦を意味した。人間はその受苦を免れる特権を神から授けられてはいなかった。ヒューマニズムは人間を特別視する思想である。だから、種の絶滅に導くほど或る生きものを狩りたてることと矛盾しなかった。徳川期の日本人は、人間をそれほどありがたいもの、万物の上に君臨するものとは思っていなかった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.504~505

 

おわり。

本日のつれづれ no.530 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第12章 -生類とコスモス-③〜

2017.09.12  【540日連続投稿】

 

 バードは山形県で馬の代わりに美しい牝牛の背中に乗ったことがあった。彼女は新鮮な牛乳が手に入るとよろこんだが、彼女の言葉を聞くと人びとはみな笑った。通訳の伊藤の説明によると彼らは、乳というのは子牛が飲むもので、人間が飲むのは「とても胸の悪くなるような」行為だと思っているとのことだった。つまり彼らにとって、人間か牛乳を飲むのは子牛のものを盗みとる行為に思えたのだ。いやそれだけではない。獣の乳というものに、彼らは禁忌を触発する一種の肉感性を感じてもいたのだろう。

 〜中略〜

 当時の日本人からすれば、農耕にせよ、運搬にせよ、牛は十分に働いていた。家族全員がそうしているように、牛も一員として労働させなばならぬのに、その上、本来は子牛のものたるべき乳まで収奪しようというのは、いささか没義道にすぎるというものだった。乳牛という観念は、この国ではまだ成立していなかった。

 ホジソンが箱館で、英国人従者に牛の乳をしぼらせたときは、二人の役人が付きっきりで制止せねばならぬほどの見物人が集まった。一パイント(約四七〇ミリリットル)ほどの乳がしぼり出されたとき、彼らはどよめいた。「これまでこの有用な必需品を彼らが発見していなかったのは明白であった」。ホジソンによれば、あとでは寺の和尚もお茶に牛乳を入れて飲むようになったそうだが、見物人たちがどよめいたのは、こういう利用方法があったのかというおどろきもさることながら、一方では、そこまでやるのかという、牛に対する同情の思いが動いたからではんかったか。徳川期の日本人にとって馬、牛、鶏といった家畜は、たしかに人間のために役立つからこそ飼うに値したのだが、彼らが野生を捨てて人間と苦楽をともにしてくれることを思えば、あだやおろそかに扱ってはならぬ大事な人間の仲間だったのだ。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.501~502

 

おわり。

本日のつれづれ no.529 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第12章-生類とコスモス-②〜

2017.09.11  【539日連続投稿】

 

 石川英輔によると、十九世紀の英国での馬車馬は、四年働ける馬は稀なほど酷使されていたという。彼は「私が十九世紀の馬なら、イギリスより日本に生まれたい」と書いている。ただし、明治十一年の北海道では、目を覆いたいほどの馬の虐待が行われていたことを補足しておかねば、話は不公平になるだろう。バードがそれを実見している。

 彼女が見たところでは、北海道の馬はみな背中にひどい傷を負っており、中には「手が入るような大きな穴」のあいているものがいた。

「粗末で腹帯もつけてない荷鞍と重い荷物」のせいでそうなるのだ。しかも彼らは「重い棒で目や耳を無慈悲に打たれる」。あるとき彼女は、日本人が馬を調教している光景を目撃した。その馬は人を乗せるのは初めてで、少しも癖の悪いところはなかった。それなのにその男は「残酷な拍車」で責めつけて全速力で走らせ、馬が疲れて立ちどまろうとすると乗り手はうまくとび降りて、馬が立てるようになると小舎へ曳いて行った。彼女は言う。「馬は調教されたといっても、実際は馬の心がめちゃくちゃにされたのであり、これから一生、役に立つまい」。こんな”調教”が、それまでの日本人の習慣になかったことはいうまでもあるまい。北海道の荒々しい新天地では、未知のなにものかが生まれつつあったのである。だからこの馬たちは、寄ると馬どうしで大乱闘を演じ、人間に対しても、たとえば浅瀬でわさと寝転んだり、「あらゆる種類のずるいことをする」。また

「山腹や海岸にいる馬の大群を見ると、いつもその中に入りたがる」。もともと彼らはそういう群れから捕虜されて来たのだった。明治三十年代に来日したポンティングは「日本では馬がしばしば虐待され酷使されている」と言っている。新しい時代は確実に日本全土を覆いつつあったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.497〜498

 

おわり。

本日のつれづれ no.528 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第12章-生類とコスモス-① 〜

2017.09.10  【538日連続投稿】

 

 日本人は牡馬を去勢する技術を知らなかった。知らぬというより、そうしようとしなかったというべきか。古き日本にも駅逓の制があって、馬を集団的に統御する必要がなかったわけではない。それなのに、去勢をはじめとする統御の技法がほとんど開発されなかったのには、何か理由がなくてはならぬ。それはやはり彼らが、馬を自分たちの友あるいは仲間と認め、人間の仲間に対してもどうであったように、彼らが欲しないことを己の利便のために強制するのをきらったからであろう。バードは馬に馬勒をつけさせようとして、人びとの強い抵抗に出会った。彼らは「どんな馬だって、食べるときと噛みつくとき以外は口を決して開けませんよ」と言って、馬勒をつけるのは不可能だと主張した。バードは「銜を馬の歯にぴったり押しつけると、馬は自分から口を開けるものだ」と説明し、実際にそうやって見せて、彼らはやっと納得したのである。つまり当時の馬を飼っていた農村の日本人は、銜をかませるなどというのは馬の本性に反することで、本性に反することは強制できないと考えていたことになる。去勢などは、馬の本性すなわち自然にもっともであっただろう。彼らは馬に人間のための役に立って欲しいと思っていたに違いないが、さりとて、そのために馬に何をしてもいいとは考えていなかった。彼らは馬にも幸せであって欲しかったのだ。人間の利益と馬の幸福の調和点が、外国人から見ればいちじるしく不完全な、日本的な馬の扱いとなって表れていたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.497

 

おわり。

本日のつれづれ no.527 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第11章-風景とコスモス-⑥〜

2017.09.09  【537日連続投稿】


 欧米人が讃美したいわゆる日本的景観は、深山幽谷のそれを除いて、日本人の自然との交互作用、つまりその暮らしのあり方が形成したものだ。ましてや景観の一部としての屋根舟や帆掛け船、先頭の鉢巻、清らかな河原、そして茅葺屋根やその上に咲くいちはつに至ってはいうまでもない。つまり日本的な自然美というものは、地形的な景観としてもひとつに文明の産物であるのみならず、自然が四季の景物としては意識のなかで馴致されたという意味でも、文明が構築したモスモスだったのである。そして徳川後期の日本人は、そのコスモスのかなで生の充溢を味わい、宇宙的な時の循環を個人の生のうちに内部化した。そして、自然に対して意識を開き、万物との照応を自覚することによって生まれた生の充溢は、社会の次元においても、人びとのあいだにつよい親和と共感の感情を育てたのである。そしてその親和と共感は、たんに人間どうしの間にとどまるものでもなかった。それは生きとし生けるものに対して拡張されたのである。

渡辺京二『逝きし世の面影』p.474~475

 

おわり。

本日のつれづれ no.526 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第11章 -風景とコスモス-⑤〜

2017.09.08  【536日連続投稿】

 

 ヒューブナーは言う。「日本人自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によってのみ育み形成することが必要である。ヨーロンパの農民たちの話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、森の値打ちとかであって、土地の絵画的魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感にすぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。日本の農民にあっては、美的感覚は生まれつきのものなのだ。たぶん日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれていないからだ。」。ヒューブナーはオーストラリアの貴族であり、かつメッテルニヒの腹心だったという外交官である。いったい彼は自国の農民についてどれだけのことを知っていてこういう断言をしたのだろうか。また、「肥沃な土壌と雨と太陽が仕事を半分してくれる」ので、日本の農民は戸口で寝そべって美しい風景を楽しんでいるなどと、どんな知見に基づいて書くことができたのだろうか。しかしこれが全部与太話だとしても、彼が前引のように感じたという事実は残る。彼は、自分が実見した富士山麓の美しい村々のたたずまいに幻惑されたのかもしれない。だが当時の日本の村のたたずまいには、自然美の生活の重要な一部としてとりこんだ暮らしを直感させるような、何ものかがあったことはたしかだ。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.452~453

 

おわり。