名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.611 〜ソフトバンクのCMに凄みを感じた件〜

2017.12.06  【625日連続投稿】

 

今夜、テレビでFNS歌謡祭を見ながら、シェアハウス住人と談笑していた時に、(テレビはほとんど見てなくて)突然、エヴァンゲリオンの曲の「残酷な天使のテーゼ」が耳に入ってきて、

「でも声が原曲と違うな」

と感じていたら、ソフトバンクのCMでした。

 

楽しく談笑していた荷物関わらず、談笑を自然とやめ、つい視線をはじめ、意識がテレビの方へ行ってしまう。これはソフトバンクの策略にしてやられたなぁ、そしてこれを作った人凄いと思いました。

 

シェアハウス住人の話では、大手携帯会社で先駆的にソフトバンクがドラマ仕立てのCMを始めたとことろ、顧客からの好感度がもっともよくなったそうで、それに影響されて他の会社もドラマ仕立てを現在は展開しているらしい。

 

つい見てしまっCMはこちら。

ソフトバンクCM「家族みんなでエヴァ熱唱」篇(30秒) - YouTube 

 

おわり。

本日のつれづれ no.610 〜國分功一郎『中動態の世界』 -思考の「可能性」を規定するとはどういうことか-〜

2017.12.05  【624日連続投稿】

 

 「思考の内容は言語から、そして言語において形を受け取るのであって、言語こそ、可能なあらゆる表現の鋳型である」。

 「人が考えうる事柄を画定し、組織するのは、人が言いうる事柄である」。

 デリダ上記の引用部から「思考の発展」と「精神の活動」の二つの表現は取り上げても、「思考の可能性」は取り上げない。これはデリダが、「バンヴェニストは思考を言語に還元している」と思い込んでいることの現れ、一つの症候である。

 そして、この表現は決定的に重要である。言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということではない。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。

 言語が思考を規定するのでも、思考が言語に還元されるのでもなく、言語が思考の可能性を規定し、言語が思考の可能性の条件であるとすれば、両者の関係はどうなるか?

 仮に、言語の思考を直接に規定するのだとしたら(つまり思考が言語に還元されるのだとしたら)、言語と思考が単なる二つの項として並べられる、あるいは、どちらかの上に置かれるだけである。

 だが、思考されうることに、つまり思考の可能性に作用するのであれば、その多種多様な作用が展開するための場が設定されねばならない。言語の思考に対する作用は、強い拘束力を持つ場合もあれば、単なる影響の場合もあろうし、もちろん、思考によってその作用がはねつけられる場合もあろう。言語が思考を直接に規定するのではなく、思考の可能性を規定するといった途端、そうした諸作用の織りなされる場が論理的に要請されることになる。

 では、その場とは何か?それは言語が語られ、思考が紡ぎ出されている現実そのもの、すなわち、社会であり歴史に他ならない。「人間の能力」「文化の一般条件」「社会の組織体制」と結びついたその場をフィールドとして、言語は思考の可能性に作用する。

 言語が思考の可能性を規定するという定式は、もともとあった単純な言語決定論に「可能性」という語を挟み込んだだけではない。この定式は、言語と思考の関係を考えるうえでの構えそのものの変更を迫る。

國分功一郎『中動態の世界』 p.111~112

 

 思考が言葉となり、言葉が思考となる。

言葉は思考を深める。

言葉は思考と思考を繋げる。

言葉は新しい思考を生む種となる。

言葉こそが人類最大の発明じゃないかと思った。

 

おわり。

 

 

本日のつれづれ no.608 〜シェアハウス「サムハプ」に住み始めて2年が経ちました〜

2017.12.04  【623日連続投稿】

 

気がつけば、先日2017年12月1日で今住んでいるシェアハウス「サムハプ」に住み始めて、2年が経ちました。

 

そう考えれば、あっという間の2年間でした。

 

既に他の場所で暮らしている人も含め、5人の方と共同生活をしました。

 

4人で始まり、2人離れ、1人入り、また1人入り、今も男4人で細々と暮らしています。

 

住む人が変われば、雰囲気も細かなルールなども変わってきています。

 

他人と一緒に暮らすなんて結婚を意識するまでないもんだと思っていた自分が過去にて、一緒に住む仲間がいることが、奇跡のような感覚でした。

 

これこそ、ご縁と巡り合わせなんだと思います。

 

未だ、今住んでいる4人でご飯に行ったことはありませんが、仲はいいです。先月に4人でカラオケに行きましたし。きっと仲良いです。

 

時々リビングでばったり会って、飲みながら話すことがやっぱり中々良いです。

 

唯一の欠点は、部屋がめちゃ寒いことです。

 

何とか、こたつに入り込んで凌いでいます。

 

これからサムハプでの3度目の冬がやってきます。

寒い冬には、鍋ですね。

サムハプの寒い部屋を温めてくれる人は、一緒に鍋つつきながら、飲みながら、話しましょう。

 

またいつやるかお声かけします。

 

久しぶりに思いついたことをダラダラと書きました。

 

時には、いいもんです。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.607 〜平井雷太 詞集 『いじめられっ子のひとりごと』④〜

2017.12.03  【622日連続投稿】

 

 やさしさを

自覚している人は

自分が

人を傷つけることに

気づかない

 

平井雷太 『いじめられっ子のひとりごと』

 

おわり。

本日のつれづれ no.606 〜國分功一郎『中動態の世界』-意志、ふたたび・・・-〜

2017.12.02  【621日連続投稿】

 

 われわれはいま、中動態の歴史に迫りつつある。それゆえに、最初の問題へと戻ることができる。

 能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。われわれは中動態に注目することで、この対立の相対化を試みている。かつて存在した能動態と中動態の対立は「する」と「される」の対立とは異なった位相にあるからだ。

 そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。

 ここでたいへん深い事実に言及して次章へのおつなぎとしよう。ハンナ・アレントが伝えている次の事実である。

 

 実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という〔アリストテレス的〕見解は、暗々裏に未来を、真正な自制とすることを否定している。すなわち未来は過去の帰結以外のなにものでもない〔・・・〕。このような事情のもとでは、記憶が過去のための器官であるような具合で、意志を未来のための器官とする考えは全く不必要なものだった。アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.97~98

 

おわり。

本日のつれづれ no.605 〜そばの日〜

2017.12.01  【620日連続投稿】

 

私が勤める特別支援学校で、教室に日めくりカレンダーがあります。

そこには、今日は何の日コーナーがあって、毎日見ているのですが、最近、気付いたことがあります。

 

先月、10月30日はハロウィンですが、もう一つ「そばの日(蕎麦の日)」と書いてありました。

そして、昨日11月30日も「そばの日」と書いてあり、「あれれ?先月もそばの日で、今月もそばの日なのか?」と思い気になって調べたところ、毎月末は「そばの日」だという事実が分かりました。

 

ちなみにこちらのサイトで確認済

              ↓↓↓↓↓↓

11月30日  そばの日|なるほど統計学園

 

こちらのサイトによると、

 11月30日に限らず、毎月月末(みそか)は「そばの日」です。

 昔、江戸の商人が毎月月末に縁起物としてそばを食べていたことから、日本麺業団体連合会が定めました。細くて長いそばの形状から、身代(しんだい=家の財産)が長続きするように、という願いを込めていたそうです。

だそうです。

 

大晦日に年越しそばを食べる風習は現代に残っていますが、まさか江戸時代から続いていたものだったんですね。しかも、江戸時代では毎月末食べられていたということは、なんだかそばが主食に近い存在である私にとっては、嬉しいですねえ。

 

おわり。

本日のつれづれ no.604 〜國分功一郎『中動態の世界』-「在る」「生きる」はなぜ能動態か-〜

2017.11.30  【619日連続投稿】

 

「『在る』が『食べる』と同じように能動態のみに属するということは、われわれには驚くべきことのように思われるかもしれない。しかしこれが事実なのであって、われわれはわれわれの解釈をこの事実に適合させねばならないのである」。

 これに続くバンヴェニストのコメントはきわめて興味深いものだ。

 「『在る〔存在する〕』は、インド=ヨーロッパ語では、『行く』や『流れる』と同様に、主体の関与が必要とはされない過程なのである」。

 おそらく同じく能動態のカテゴリーに置かれている「生きる」についても同様である。すると、今日われわれが知る能動/受動のパースペクティヴからでは想像もつかないことが、能動/中動のパースペクティブからは読み取れることになる。

 中動態と対立するところの能動態においてはーこう言ってよければー主体は蔑ろにされている。

 「能動性」とは単に過程の出発点になることであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味から著しく乖離している。インド=ヨーロッパ語では、「存在する」も「生きる」も、「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」だったと考えられるのである。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.90

 

能動性という言葉は、主体性と類似する言葉だと思っていたが、中動態との関係の中では、類似する言葉ではなくなる。

ただ、過程の出発点に過ぎないのである。

 

おわり。

本日のつれづれ no.603 〜國分功一郎 『中動態の世界』-「するかされるか」ではなく「内か外か」〜

2017.11.29  【618日連続投稿】

 

 「以上のような照合から十分明白に、本来の意味で言語的な一つの区別、主語と過程との関係に関わる一つの区別が現れてくる。能動では動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対する態である中動態では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。

 一言でいうとこういうことだ。

 能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.88

 

主語が過程の外にあるか、内にあるか。

する、されるとは明らかに違う。捉え方が生まれた。

外か、内かというのをこれから紐解くことになるだろう。

 

おわり。

本日のつれづれ no.602 〜國分功一郎 『中動態の世界』 -バンヴェニストによる中動態の出発点-〜

2017.11.28  【617日連続投稿】

 

第2章から難しい文法の話に入り、少しも分からない状態でしたが

バンヴェニストが言う能動態の出発点という箇所を読んで、文法の話に入ってどういう話が展開されていたのか、また今後の話がどう進んでいくのか、鍵となる部分はここだなぁと思いました。

 

〔言語の〕参加の両端をとれば、動詞の能動態がまずは中動態に対立し、次いで受動態に対立するのが見て取れる。これら二つのタイプの対立のなかで問題となるのは相違なる〔二つの〕カテゴリーである。それらに共通の項、つまり「能動」という項は、「中動」に対立されたときには、「受動」に対立されたときと同じ意味をもちえない。

 

国分功一郎『中動態の世界』p.84

 

おわり。

本日のつれづれ no.601 〜自問自答の幅を広げるコツ〜

2017.11.27  【616日連続投稿】

 

自問自答ってなんだか、自分の頭の中でぐるぐる考えているイメージがあります。

 

自問自答するときは、なんだか考えることの方向性が一方向に向き過ぎている感じが、私の中ではあるのですが、他の人はどうなんだろう?

 

マイナス思考の時は、とことんマイナス思考になる。

良くて、マイナスをどうにかプラスに持っていこうとする対極の思考をすることくらいではないでしょうか?

 

なかなか自問自答のしても、ぐるぐるさせないようにする方法の一つは自分の中に登場させるのが自分だけでなく、あの人だったらどうだろう?など、自分とは違う思考をする人を自分の中に登場させるわけだ。

 

そうすることで、色んな角度から自問自答できるようになるような気がする。

 

ところが、自分の中に登場させた他人も自分のフィルターをかけた他人であって、他人にはなりきっていない。

 

だからこそ、人の話を聞いてこの人がどういう思考や想いを持つ人間なのかなって知っておくことが、自問自答の幅を広げるためならコツの一つなんだなぁと思うのです。

 

おわり。