名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.1432 〜中動態を実感〜

2020.03.26 【1462日連続投稿】

 

昨日、本日にかけて主体的でも受動的でもないなっていう感覚の出来事がありました。

 

ある利用者さんは朝は電車通勤、帰りはスタッフの送迎で帰っています。

元々は、障害が理由で覚えることが苦手で道に迷うことが心配で送迎をしていましたが、朝の出勤は電車に乗れるし、駅からの道もすっかり慣れてきました。

 

また週4日出勤をしていますが、なかなか1日増やして週5日にはしたくないとのこと。

定期的に促していましたが、このままがいいとこの2年続いてました。

 

今回は年度が変わるタイミングということで、面談を実施。

 

「そろそろ自分で行き帰り電車で来れそうじゃないですか?」と聞くと、

 

「うん、できる」と答えられました。

 

交通費が帰り分もかかってしまつので、ご家族にも相談した結果、家族で話し合いに。

 

翌日の今日、ご家族で話し合って送迎なしで自分通勤になり、週5日に増やすことにしたと報告ありました。

 

ご家族での話し合いの様子を母親に聞いてみると、ご両親から「今後の自立のためにそうしたら?」と促したところを本人が了解したようです。

 

母親は「主体的じゃなかったけど、一歩進んだ気がする」と話しておられました。

 

この話を聞いて、「主体的が一概的に絶対的に良し」とは限らないと思いました。

 

もちろん、話を聞く限り全く強制ではないと思ったので、能動でも主体でもない「中動」だなって思いました。

 

おそらく、能動を待っていたら進むことにもっと時間がかかっただろうし、強制されては続かないかもしれません。

 

色んな人の気持ちや意見を混ぜてみて、最終的に自分が了解するっていうのは、重要なことだと思っています。

 

むしろ、日常的にこのような出来事はいくつも起きていると思いますが、今日の出来事は「中動態が顕著な出来事」だったなと思います。

 

おわり。

 

本日のつれづれ no.1431 〜課題から目を逸らさないこと〜

2020.03.25 【1461日連続投稿】

 

 私は二十一世紀は「方法の時代」になるだろうと考えている。ここで「方法」といっているのは、「主題の時代」ではないという意味だ。

 すでにわれわれは二十世紀においてだいたいの主題を提出し、その展開が意外にも難題をたくさんかかえていることを知った。たとえば平和、たとえば教育問題、たとえば安全保障、たとえば経済協力、たとえば環境保全、たとえば飢餓脱出・・・。これらは地球上のどんな社会にとっても、いまや最も重要な主題として認識されている。加うるに「地球にやさしい」「子供は創造的な環境にいたほうがいい」「市場は自由な競争がいい」といったことは、まるで「亭主元気で留守がいい」「お酒はぬるめの燗がいい」とばかりに、おおむね二十世紀後半の大前提になった。

 しかし、事態は決してうまく進んでこなかった。誰だって戦争は危険なもの。爆撃は危険なものだとおもっているけれど、戦争はなくならないし、経済恐慌は避けたほうがいいとはわかっているが、どの国だって好景気はなかなか続かない。亭主も元気でいるとはかぎらない。

 つまりどのような主題が大事かは、だいたいわかってきて、ずらりと列挙できているにもかかわらず、それだけでは決してうまくいかなかったのである。それゆえ、おそらく問題は「主題」にあるのではない。きっと、問題の解決の糸口はいくつもの主題を結びつける「あいだ」にあって、その「あいだ」を見出す「方法」こそが大事になっているはずなのだ。

 

松岡正剛『知の編集術』p.38〜39

 

俗に言われる「社会課題」は世の中に、数えられないほど溢れているのではないだろうか。

私は二十世紀末に生まれたが、課題があることが当たり前という状況で育ってきている。

 

戦争も高度経済成長もバブルも知らない。

もちろん、歴史的に何が起きたのかは知っているが。

 

やはり、課題に慣れきってしまって当たり前にしないことが重要ではないか。

自分が困っていないから、自分はいいや。といく気持ちは、課題から目を逸らしているのだろうと思っている。

 

トレンドでいうと、「自分はコロナじゃないから、気にせずにいつも通り外出するし、マスクも手洗いもしない」っていうのは、もしかしたら自分を介して誰かにウイルスを移しているかもしれないのである。

 

自分ごとにしなくてもいいが、課題があることを認識し目を逸らさないこと。

 

課題は並んでいるのであるから、あとはいかに編集していくかだけであり、これからどういう生きていくかということであると思う。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1430 〜無意識から意識に移行する仕組みを考える。〜

2020.03.24 【1460日連続投稿】

 

よく人が考えている意識は5%程で、残り95%は無意識領域であると言われている。

 

意識が全てだ!

 

と思い込んでいる人ほど、自分が見えていない。

 

自分には見えていないことがあり、「どこが自分の盲点か?」と自己観察できることがとても大切なのだと思う。

 

だから、無意識をいに意識に持っていけるか?ということが自分を変えることに繋がるのである。

 

毎日できそうでできないことを続けることは、気合いの問題ではなく、いかに無意識から意識領域に持っていくか?という問題である。

 

分かってたけど、できなかった。

 

というのは、意識にあったけど自ら無意識に持っていっているということだし、意識にあるならやるしかなくなる。

 

来年度もなかなか忙しそうなので、いかに自分の盲点を自覚し、無意識を蔑ろにしないことが大切なんだと思う。

 

嫌なことや避けたいことは、無意識に持っていって忘れたいと思うから、適度に向き合い続けていこうと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1429 〜余裕があるからセルフチェックができる〜

2020.03.23 【1459日連続投稿】

 

日々メールのやりとりであったり、日報であったり、ブログを書いたり文章を書いています。

 

日々自分の文章を見つめていくと、誤字脱字が多い時期があります。

 

そういう時は必ず自分に余裕がありません。

 

複数ものことを考えながら文章を書いていたり、書きたい文章とは全く別のことが頭をよぎったりしていると全然自分の文章が地に足がつかずに書いているのです。

 

また、普段見直しているはずのようなことも見直す気力がなくなったり、「まぁいいか」という気持ちになりやすかったりするのです。

 

つまり、いかに余裕を作るかということであり、セルフチェックができているということは余裕があるということです。

 

最近は日常からセルフチェックの視点がちょっと欠けていたなぁと自戒しております。

おわり。

本日のつれづれ no.1428 〜編集稽古04 「相互共振」〜

2020.03.22 【1458日連続投稿】

 

会話の編集の奥深さの入り口にどうぞ。

 

【編集稽古】04

ここに、ある小説の冒頭部分が掲げられている。この短い会話からどんなことが想像できるだろうか。

 

「葬式はどこでやるんだろう?」と僕は訪ねてみた。

「さあ、わからないな」と彼は言った。「第一、あの子に家なんてあったのかな?」
ここに、ある小説の冒頭部分が掲げられている。この短い会話からどんなことが想像できるだろうか。

 

「葬式はどこでやるんだろう?」と僕は尋ねてみた。

「さぁ、わからないな」と彼は言った。「第一、あの子に家なんてあったのかな?」
村上春樹羊をめぐる冒険』より


友人からの電話だ。そうとうに短い会話だが、それでもこれだけで「あの子」が死んだことがわかる。それが急な出来事だったろうことも、わかる。

それに、「あの子に家なんてあったのか」というセリフが、これからの物語のすべてを暗示する。実際にも、読者はこのあとただちににムラカミ・ワールドに連れ去られていくことになる。詳しくは"原作"を読まれたい。

このように「話す」「会話する」という流れには、かなり高次な編集が起こっている。それが可能になっているのは、編集をしあっている違いが自分たちが所属している文化と文脈をよく知っているからなのだ。また、互いの「情報の様子」を心得ているからだ。相互共振があるからだ。
ただ、われわれはどうしてそのように会話が成立してきたのか、そこにどんな手法が生きているのか、それはどのような編集方法なのか、そのことに気づいていないだけなのである。

松岡正剛『知の編集術』p.35〜36

 

おわり。

本日のつれづれ no.1427 〜解決を目的とするから解決しないことがある〜

2020.03.21 【1457日連続投稿】

 

課題を課題と見てしまっているから、課題になってしまうことがある。

 

困りごとを解決しようとして、もがけばもがくほど困ってしまうこともある。

 

困りごとがあることを、ただあると認識しているだけでいい。

 

解決を目指さないうちに、自然と困りごとがなくなる。

 

特に、自分の内にある困りごとには特に目指さない方がいいと思っている。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1426 〜会話の中にも編集が満載〜

2020.03.20 【1456日連続投稿】

 

普段何気ない会話の中にも編集は満載である。

 

さて、第3の特徴にあげておいたのは「編集は日々の会話のように『相互共振する』する」と言うことだ。相互共振というのは、編集という動向は単独で律しているのではなく常に何と呼応したり、交信しているということを表している。「日々の会話のように」というのは、まさに会話の中には編集術が躍動しているという意味だ。その会話のことをちょっと考えてみよう。

われわれは、毎晩毎晩、会話をしている。他人の会話を聞いているときもある。テレビのワイドショーにこれだけ視聴者がついていると言う事は、人間は他人の会話を盗み聞き行くのが好きなのかという証拠でもある。ともかくなんであれ、われわれは日々の会話環境によって膨大な時間を使っている。一説には人生のほぼ半分は会話で占められているらしい。

 

松岡正剛『知の編集術』p.30〜31

 

この会話の編集には、言語化されたものが表出してくるものもあれば、言語化されないが確かに表出されているものがある。

 

言語化されたものにフォーカスを当てがちであるが、会話の中の編集を紐解いていくと、言語化されていないことが重要だったりするのだと思います。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1425 〜召使いマインド〜

2020.03.19 【1455日連続投稿】

 

今日の大きなテーマ「召使いマインド」

 

以下、参考文献

召使いマインド | 名古屋市千種区、緑区、常滑市、個別学習塾塾長ブログ

 

召使マインド - gt-24o’s blog

 

 

おわり。

本日のつれづれ no.1424 〜自由過ぎると不自由になるかもしれません〜

2020.03.18 【1454日連続投稿】

 

自由という言葉は厄介だ。

 

「自由にやっていいよ」

 

この一言を聞くとすべての権限を自分に任されて、自分が責任を取れる範囲で何やってもいい気分になってしまう。

 

しかし、自由であると、その自由の範疇でしかやれなくなる訳で、逆に自由度は下がるという側面もある。

 

働き方で、自分の好きな時間で働くことができる反面、人に合わせることが難しくなるかもしれない。

 

食について、自分の好きなものばかり自由に食べる反面、長期的に見れば不健康で食事が制限されるかもしれない。

 

自由過ぎると、不自由になるかもしれません。

 

おわり。

本日のつれづれ no.1423 〜上手くいくよりも大切なこと〜

2020.03.17 【1453日連続投稿】

 

本日、初めて友人であり教師塾を一緒に運営している西尾亮さんが、弊社の就労継続支援B型事業所を見学に来てくださいました。

 

感想を聞いてみると、

想いだけでなくちゃんと実践しているところは実践してるんだなと言っていました。

 

それを聞いた時に、「ああ、そうか」と思いました。

 

ただ単に、障害者が稼げられればいいとか、何でもいいから就職させられたらいいとか、そういうことをやりたいんじゃないんだなって、改めて思いました。

 

日頃から結果が上手く出るよりも、在り方やプロセスを前提にやれているのかなと気付かせて頂きました。

 

おわり。