自分の頭の中で考えて勝手に作り出したものに
不安を感じたり、苛立ったり、落ち込んだり。
いくところまで落ち込んだら、
「いかんいかん、何を俺は自分の想像で作り出したものにビビってんだ⁈」
「バカか俺は!」
開き直ったかと思えば、
また落ち込む自分。笑
これは笑うしかない。笑
と思い、ブログに残そうと思ったので綴っています。
(月日が過ぎて読み返した時に思いっきり笑う予定。笑)
人と会って話していたら、ワクワクすることばっかりなのにな。
1人でいたら、一気に気力が無くなるような思考になる。
まぁ、そうやって物思いにふけるというか、じっくり考えるのを
できるのはあと少しだもんなぁ。
4月1日からはそんな暇なくなるぞい!
だから、それまでの時間を贅沢に使うのもアリだし
いや、もっと有効なことに使えよっていう自分もいる。
結局、考えるしやることはやるような日々を過ごしてるな。。。
こうやって書いてると落ち着く。。。。
悩みがあると人に話すとスッキリするように、ブログに書くのも同じ効果があるような気がする。
アウトプットすることで、脳にいいのかな?笑
最後に最近読んでる本で、リンクしてくる部分があった。
現代の用法では、「活動」というと、エネルギーを費やして現在の状況に変化をあたえるような行為を指す。したがって、事業に取り組んだり、医学を勉強したり、はてしないベルトコンベアーの上で働いたり、テーブルを作ったり、スポーツに興じたりすると、その人は活動的だとみなされる。これらの活動の全てに共通しているのは、達成すべき目標が自分の外側にあるという点である。活動の動機は考慮にはいっていない。たとえば、つよい不安と孤独に苛まれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる。どちらの人も情熱の奴隷となっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である。自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから。
一方、静かに椅子に座って、自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的も持たずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので、「受動的」と言われる。だが、実際は、この精神を集中した瞑想の姿勢は、もっとも高度な活動である。内面的な自由と独立がなければ実現できない、魂の活動である。活動の一つの意味、すなわち現代における意味は、自分の外にある目的の為にエネルギーを注ぐということであり、もう一つの意味は、外界の変化には関わりなく、自分に本来備わっている力を用いるということである。エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 「愛するということ」
やはり、外的要因が変わって自分の力が無くなることより
自然と自らやってしまう「能動的な生き方」をしたい。
自分に向き合わないで、受動的な生き方はしたくない。
再確認しました。
おわり。