2016.07.14 【115日連続投稿】
能楽に『張良』という曲があります。これは中国は漢の時代の将軍でその武名をうたわれた張良という人が、その若い頃に黄石公という老人から「太公望秘伝の兵法の極意』を授けられたときのエピソードを戯曲化したものです。
若き張良が浪人時代に、武者修行の旅先で、黄石公というよぼよぼの老人に出会いましす。老人は、自分は太公望秘伝の兵法の奥義を究めたものであるが、キミは若いのになかなか修行に励んでいてみどころがあるので、奥義を伝授してあげようと申し出ます。
張良、喜んでそれからは「先生、先生」とかいがいしくお仕えするのですが、この老人先生、そう言っただけで何も教えてくれません。いつまで経っても、何も教えてくれないので、張良の方もだんだんいらついてくます。
そんなある日、張良が街を歩いていると、向こうから石公先生が馬に乗ってやってきます。そして、張良の前まで来ると、ぽろりと左足の沓を落とします。
「取って、履かせよ」と老先生は命じます。張良、内心はちょっとむっとするのですが、ここは弟子のつとめということで、黙って拾って履かせます。
別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った石公先生と行き会います。すると先生、今度は両足の沓をぽろぽろと落として「取って、履かせよ」と命じます。張良、さらにむっとするのですが、これも兵法修行のためと、甘んじて靴を拾って履かせます。
その瞬間に、張良全てを察知して、たちまち太公望秘伝の兵法の奥義ことごとく会得して、無事に免許皆伝となりました。
おしまい。 『先生はえらい』著:内田樹
最初これを読んで何のこっちゃ全く分からなかったです。
いや、だって先生は何も教えてないのに、免許皆伝なんで意味わからない。
ずっと「???」が続いていました。
実は今は「?」くらいになりました。
「??」がなくなったわけですね。
それはどういうことかというと、「??」は自分で勝手に解釈できるということ。
張良は、先生が沓を落とした行為が何らかのメッセージだと思って、勝手に解釈して、勝手に兵法を見つけてしまったとこのあと続きには書いてあります。
相手は何の意図もなくしたことでも、勝手にこっちが解釈してるって結構あります。
そんなことが日常茶飯事じゃないかなって思える。
学ぶというのは、そんな構造になっているのかもしれない。
学んだことは、結局自分の解釈に置き換えられる。
コニュニケーションでも同じこと。
コニュニケーションは誤解が常にはらんでいて、正確に意思疎通できることが絶対的に良いとされるものではない。
素敵な誤解のおかげで、あなたと私がさらに繋がる。
素敵な誤解のおかげで、私はあなたを好きになる。
素敵な誤解のおかげで、この世は愛に満ちている。
おわり。