2016.10.24 【216日連続投稿】
大学3年の頃から自分から大学以外の学ぶ場所に行って、色々な講演会、セミナー、イベントに参加した過去が僕にはあります。
誘われるものは基本行く感じでした。
今思えば、「学んでる自分に満足し酔っている」状態だったのかなぁと思います。
また、学びに行くことが自分を保つことであったりしていました。
そんな時のことも含めて、疑う気持ちで学ぶことって結構大切なことなんじゃないのかと思いました。
疑う気持ちがどういう気持ちかと言うと、
「この人が言うことは胡散臭い」
「信じられない」
「違和感がある」
こんな気持ちだろうと思います。
興味関心がある上で、疑う気持ちがあると学びを鵜呑みにせず、自分で深掘りしていくことができる可能性があると思うのです。
むしろそれこそ、学ぶということなんじゃないかなと思いました。
言われたことをそのまま自分のものにすることって恐らく不可能なんじゃないかと最近思います。
必ず自分というフィルターを通すことになるので、相手が伝えることと自分の解釈は全て一致するのは難しいんのではないかと思います。
理解できたと思っても、自分なりに理解したということなんだと思います。
だから、どんな気づきや学びにも自分がなければ成立しないように思えてきました。
ここまで書いてふと思ったことは、疑う気持ちで学ぶということは、「講演会に行く」とかの目に見える行動てきな主体性ではなく、内面的な主体性のことを僕は言いたいのかなぁと思いましたとさ。
内面的な主体性ってどういうこと?
そうやって自分に問い続けることが学びにおける内面的な主体性って言葉が今の僕にはハマっている気がする。
それは力むことじゃないし、日々淡々と続けることだと思いました。
おわり。