2016.12.27 【281日連続投稿】
ある本からの引用です。
今の社会は、夢を持てとか、自分らしさを生かせとか、やたらとそういうことを子どもたちに強要する・道徳の授業もそうらしい。
夢に向かって努力することが生きる喜びになる、なんて書いてある。
貧乏だった時代には、そんなこといわなかった。
「清貧」が、あの時代の道徳だったはずだ。
最近の道徳の教科書に、そんな言葉は見つからない。
清く貧しく美しくなんてのは、もう流行らないらしい。節約とか節制なんて言葉もあまり見かけなくなった。
時代が変われば、道徳は変わるのだ。
だけど今の人類が置かれた立場を考えれば、むしろ夢をかなえようなんてことより、清貧の方が大事なんじゃないの、と思う。
人間がじゃんじゃんエネルギーを消費して、地球の平均気温がじわじわ上がって、近頃は異常気象が当たり前になってしまった。5月に台風が来たり、気温が30度を超えたりしても、今じゃ誰もたいして驚かない。
東日本大震災のときは、節電しないと夏を越せないとかいって、東京の夜は暗くなった。自動販売機が電気の無駄遣いだと目の敵にされた。昔の夜が戻ってきたみたいで、こういうのもいいかなあなんて思っていたけど、しばらくしたらまた元通りのピカピカな夜が戻ってきた。節電なんて言葉もどっかへ行ってしまったみたいだ。
だけど、地球上でもおきている問題の大半は、人間があまりにもエネルギーだの資源だの食料だのを無駄遣いしているから起きているという事実は変わらない。中国の14億人がアメリカ人と同じくらいエネルギーを消費するようになったら、地球は保たないなんていわれている。
このままではどう考えたって文明破綻する。現代人は今すぐにもライフスタイルを改めなくてはならないはずなのに、その話はいっこうに進まない。節電や節約くらいで、この問題が解決するとは思えないけれど、それでも解決に向けた最初の一歩にはなる。
それはだれもが分かっているはずなのに、そういうことにはあまり真剣にはならない。節電だの節約だのは、結局のところ経済活動のマイナスになるからだ。
清く貧しく美しくを奨励されて、みんながモノを買わなくなったら、消費が落ち込んで、経済成長率は下がって、世の中は大変なことになる。
人間は、幸せになるために生まれてきた。じゃんじゃん消費して経済成長して、みんなで豊かになろうっていう高度経済成長期の幸福論は、バブル崩壊だの。大災害だの色々なことがあって、いったんは否定されてたはずなのに、今も脈々と生きている。
大志を抱け、夢を持てと子どもにいうのも、そういう文脈の話だ。
なにしろその夢のお手本が、スティーブ・ジョブズやマイケル・ジャクソンだったりするわけだから。イチローでも、本田圭佑でもいいけれど。
とにかく成功して、金持ちになって、いいクルマだの家だの自家用ジェットだの、なんでも好きなモノが買えるようになっているのが、要するに普通の大人が普通の子どもに教えている平均的な大志や夢の中身だ。ミもフタもない話だけど。
石川遼が出てきたときは、こどもにゴルフを習わせる親が増えた。今は錦織圭を目指してテニススクールに通う子どもが増えているんだろう。
夢を抱けっていうのは、前向きに生きろってことなんだろう。夢がかなうと信じて、一所懸命に勉強したり、スポーツに打ち込めってことだ。
子どもの鼻先に夢という名のニンジンをぶら下げているわけだ。
だけど、夢をもてば、誰もがスポーツ選手になったり、大金持ちになれるわけじゃない。
お笑いの世界にも¥、近頃は何を勘違いしたか、そういう成功を求めて飛び込んでくるやつらがたくさんいる。昔は、子どもが芸人になるなんて、親の恥だった。俺の母親は、俺が浅草のフランス座で働き出したときは、息子は留学してますなんて近所にいってたくらいだ。
今はもう、そんなことをいう親はいない。芸人になって、テレビで笑われるのは、誇るべき職業となったらしい。それも、芸人が儲かると言う話が広まったからだろう。実際に儲かっている芸人なんて、ごく一握りの人にスポットライトをあてて、夢を見ろと煽る。宝くじの宣伝と同じくらいの話なのに、学校の教師までが、子どもに夢を持てなんていっている。
世の中に余裕があるから、そんなことがいっていられるのだ。
夢に向かって頑張っていた子どもが、挫折してフリーターになっても、なんとか喰っていける世の中だから、夢を追いかけろなんて無責任なことがいえる。「飢え」というものを体験した世代はもうほとんどいなくなった。
昔はそんなに甘くなかった。ちゃんとした職業に就けなければ、路頭に迷うんじゃないかって親は心配したものだし、実際そういうことはいくらでもあった。
そういう時代には、誰もが夢を持てなんていわなくなった。
というより、うっかり夢を語ろうなんてものなら、親に叱られたものだ。
「医者になりたいんだって?何いってんだ。お前はバカだし、ウチにはカネがないんだから、なれるわけないじゃないか」
「画家になりたい?バカヤロウ!絵描きで飯が喰えるわけがねえだろ」
頭をひっぱたかれて、それで終わりだった。
夢なんて追いかけてないで、足元を見ろというわけだ。
乱暴だけど、それが庶民の知恵だった。
いまなら、子どもの可能性を潰す悪い親ってことになるのだろうか。
もしほんとうにその子が医者や画家になる意志と能力があるなら、そうやって頭を叩かれながらでも医者や画家になるだろう。ほんとうにやりたいことがあって頑張っている奴を否定するつもりはない。成功しようがしまいが、それがそいつのやりたいことであれば、思う存分にやればいい。だいたいそういう人間は、夢を持てなんていわれなくてもやり遂げる。
夢を追いかけるといえば聞こえはいいけど、それはつまり輝ける明日のために今日を犠牲にするということふぁ。ほんとうのことをいえば、人も羨むその「輝ける明日」なんてものは、いつまで経ってもやってこないというのに。人がほんとうに生きられるのは、今という時間しかない。その今を、10年後だか20年後だかのために使ってどうしようというんだろう。昔はそいう人間を、地に足が着いていないといった。
夢なんかより、今を大事に生きることを教える方が先だったのだ。
また遊びたい盛りの子どもを塾に通わせて、受験勉強ばかりさせるから、大学に合格したとたんに何をすればいいのかわからなくなる。
夢なんかかなえても、この世に生まれて、生きて、死んでいくだけで、人生は大成功だ。
おれは心の底からそう思っている。
どんなに高いワインより、喉が渇いたときの一杯の冷たい水の方が旨い。
お袋が握ってくれたオニギリより旨いものはない。
贅沢と幸福は別物だ。慎ましく生きても、人生の大切な喜びはすべて味わえる。人生はそういう風にできている。
そんなことは、誰でも知っている。
だけど、そんなたいせつなことも教えないで夢を追いかけろという。頑張って勉強して、スポーツやって、起業したり、有名人になったりしなければ、幸せになれないと脅す。
そうしないと経済成長が止まって、大変なことになってしまうからだ。
だけど、大変なことになるのは、いったい誰だろう。
少なくとも、清く貧しく美しく生きてる奴ではない。
『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』 著:北野武
この本に出会ったきっかけは、週に1回通ってる寺子屋をやっている井上さんのブログに僕が引用した部分が載っていたのを読んだからです。同じく僕が引用したのは、この文章を読んで思うこと考えること感じることがあったからだと思います。
北野武さんは結構ズバズバいってますが、本当に言いたいことは「生きてるだけでいい。生きるってことは今を生きること。」だと僕は感じました。それは、僕がそういうアンテナを張ってたから、そういう色眼鏡をかけていたからなんだと思います。幸いにも今の日本は何かになれないと生きていけないことはありません。僕は今年の4月学校で講師をしていますが、生きてく為のお金としては十分に頂いているし、仕事は楽しくやらせて頂いているし、日々幸せだなぁと感じて過ごしています。
それは、なんなんだろう。
いつからそんな自分になったのか不思議です。
大学3年生の頃は結構ギラギラしていたというか、「教育を変えたい」だとか「学校を作りたい」だとか夢を見ていたと思います。今はそこを目指そうとしていません。
「じゃあどこを目指しているの?」と聞かれても、「どこも目指していない」と答えるでしょう。ようやく自分という乗り物の乗り方のコツが掴めてきたので、来年は今の起点に少し色んな方向を模索しようと思います。ずっと今のところに居座り続けようとは思っていないので。今を否定するわけではなく、今は変わり続けているから今の自分が居たいところにいる感覚かな。
僕は、
誰かにとっては「軸がない人」に見えるかもしれない。
誰かにとっては「彷徨っている人」に見えるかもしれない。
誰かにとっては「自立していない人」に見えるかもしれない。
誰かに「こうしたらいいじゃん」と言われることがあるが、僕はそう言われることが嫌いなんだと最近気がついた。僕の人生なんだからと言えば、言い訳みたいになってしまうが、他人に決めらるようにされるのが嫌なんだろうな。
他人に生き方や仕事を決められた方が楽なんだろうけど、そこは自分の譲れないとこなのかもしれない。自分で決めたいんだろうな。それだけは分かってきた。まだまだ決めることに至らないけれども、不安があるということは、「この先生きていけるのか?」「周りと比べて自分は...」と思っているから生まれるものだんだろう。
そりゃ何もなければ不安だろう。指針がない航海ほど危険なものはないかもしれない。少し自分の指針を見つけるというか、掘り起こしている感じです。すぐに見つかることはない気がしていて、毎日毎日書いたりすることで
見えてくるものなんじゃないだろうか?固まってくるもんじゃないのだろうか?かけた時間があるだけしっかりしたものができるという期待もあるが、毎日書くことが自分にとっては今を生きることで、生きる記録のようなものだと思います。
おそらく、書くことは当分やるだろう。毎日書けない日がいつかやってくるだろうけども、毎日書けなくてもいい。その時の自分が教えてくれることは貴重だと思うから。
いつまで経っても書き終わらないだろうと今は思っているけども、人生が終わるように書くことも終わる。
終わるからこそ今が輝く。
一日寝てたとしても、体調が悪くても、旅行してても、書くことを決めた自分は一つの心の拠り所があるような感覚でこれからも生きて生きんだろうな。
今日はたくさん書きました。
たくさん書いても1日、一言だけ書いても1日。
どんな1日でも書き終わったときは、心がスッとして、温泉に浸かっている気分になる。
今日もいい一日です。
おわり。