2017.01.11 【296日連続投稿】
今日から3学期の授業が始まりました。
どの授業もゆったりと始め、徐々に慣れていこうというスタンスです。
私は、ほとんど黒板の前に立っているような役割ではなく、TTといって、個々の生徒のへの対応をする役割です。
後ろから黒板の前に立って話す先生の話を聞いている時にふと思ったことがありました。
久しぶりの授業だったので、生徒の様子が気になり、よ〜く観察していた時に、以前は、ちゃんと聞いてるかとか、リアクションはどうだとか、寝てるとか、という目に見えるところ、そこまでしっかりみていなかったかもしれないなぁと思いました。見えないものを見ようとすることをひていなかった。学び手が目に見えない何かを得ているかということを、そこまで意識していなかった気がする。
黒板前の先生が話すことに対して、自分として考えてみたら、自分ならどう話すかな?と考えてみたりはしていました。しかし、黒板前の先生と生徒がどんな関係でいるのかということを見ようとはしていなかった。
一斉授業の形式でも、生徒は同じことを聞いたり目にしているのに、学び具合が大きくことなると思います
1言って10を分かる生徒もいれば、10言って1しか分からない生徒もいるだろうと思います。
以前は、この考え方に対して「だったらどこに基準を設けなければならないのか難しいよな〜」と考えていたのですが、おそらくある程度のここからここまでの幅があると認識していると大丈夫なんだと思います。あまり使いたくない言い方ですが、最低と最高が分かっていればその間があることが分かるようなイメージです。実際には二元論的でなくて、もっと複雑に絡み合っていますが、これくらいの幅や範囲はあることを意識しているだけで大丈夫だと思います。
生徒が学ぶことは生徒自身が決めているのは、どんな生徒でも同じなんだと思います。
数学、英語、国語、、、とかの教科や科目を選ぶという意味でなく、その内容から何を学ぶかは、その生徒に委ねられているということは間違いないと思っています。普通校だろうが特別支援学校だろうが関係ないです。年齢も性別も関係ないです。子どもも大人も限りはなく、学ぶことは学習者自身に委ねられているということです。
学校教育では、時間割も決められていて自ら学ぶことをしたいないと考えることもあったけれども、それでも生徒は勝手に何かしら学んでいる。
最近書いた、シェアハウスメンバーから聞いた平井雷太氏の言葉が印象的でした。「学校は、学びたくない内容を学びたくない場所で学びたくない人から学ぶことができる」
教師は、生徒の為に授業を全力で作っていると思っています。「こうなって欲しいな」「こんなことを学んで欲しい」と思いを馳せながらつくると私は思います。だからこそ、生徒は自ら学ぶことを選んでいるという前提が大切なように思いました。
これも忘れてしまいがちだけれども、少しでも意識に置きながら明日から子どもと接していこう。
おわり