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名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

読物つれづれ no.1 〜主体性は教えられるか〜

読物つれづれ

2017.01.17  【302日連続投稿】

 

「読書つれづれ」という新たなカテゴリーを作りました。

 

「読書つれづれ」は、本を読んで思ったこと、感じたこと、大切にしたい箇所に引用したりなど、本を媒介としてのつれづれを綴ったものです。

 

年末にfacebookを見ていると、今年読んだ本を振り返っていた方が複数いらっしゃいました。自分は本をボチボチ読む人だと思っていますので、今年読んだ本ベスト10とかできると大切にしたい本を残していけるし、ありだなぁと思いました。

 

ブログでは、本日のつれづれに本を読んだ感想を書くようにしていたのですが、本からのつれづれは分けた方が、後々見返す時に分類できていいなぁと思ったため、「読物つれづれ」をつくろうと思いました。

 

僕は同じ本を何回も読むので、読むたびに一言でもいいから書くようにしようと思います。

 

2017年最初に読んだ本は、『主体性は教えられるか』(著:岩田健太郎)です。

 

主体性は教えられるか (筑摩選書)

 

この本は、寺子屋塾の井上さんから1年半くらい前に紹介してもらっていたのですが、なかなか読む一歩に踏み切れなかった本です。

 

興味はあったものの、なんか読むまで至りませんでした。

やはり、タイミングというものがあるのでしょうか?

 

この本は常に主体性という言葉から、教育・医療・スポーツ(サッカー)を語っています。

 

そもそもなぜ、主体性が必要あるのか?ということを気付かしてくれました。主体性ということが良いと思い込んでいた僕は、「なぜ主体性が必要なのか?」答えられなかったのです。

 

主体性である必要であることをしっかり答えるには、「主体性とはどういうことか」自分の言葉で言える必要があると思いました。そもそも主体的である状態は不確かなことであるから。

 

著者は以下のように「主体性とは」について綴っています。

 

主体的であるとういうことは思考停止に陥らないことを意味している。それが「主体性」を説明する全てではないかもしれない。しかし、思考停止に陥っているときに「主体性」は存在しえない。思考停止からの脱皮は主体性を持つための必要条件だ。

 

 

ぼくの考える真に主体的な人物は、自分の間違っている可能性を常に胸元においておき、かつ自律的である人、そのために他者の意見に耳を傾ける人、そしてその上で責任をとる人であるからだ。〜中略〜

しかし、ぼくの考える「主体性」は単なる執着心や情熱のことではない。自分の意見を臆することなく述べる、「ただ主張する人」でもない。

 

また、他人の言葉を鵜呑みにすることは主体性が欠ける行為とも取れる発言をしており、自ら考えることが大切なのだと気付かされました。

 

そして、主体性を教えることは「教えている時点で主体性を欠く可能性が大いにある」ということは、僕が前から少し感じていたことでした。

 

そう考えると、どんな手段を取ればいい人は主体的になるのか?という話になるが、それも一概には言えないと思います。

 

世の中には、様々な教育法や授業スタイルがあるが、これをやればこうなるという確証が得られているものは一切ないと思っていいます。その場その時相手の状態や背景を考慮して、選択することが教える立場である人が主体的である条件なのかもしれないと思いました。

 

「主体性を教える」から「自分が主体的であることが大切」。この本を読んで一番の学びであったように思います。

おそらく、「主体性とはこれだ!」と思った時は思考停止になった時なんだろうなと思います。

分からないことを分かったつもりにならず、自分の中でだけでなく他者との対話も通じていつまでも探求することは主体性はなのかもしれないと今は思っています。

 

おわり。