名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

読物つれづれ no.6 〜阿部謹也 『自分のなかに歴史をよむ』〜

2017.05.28  【433日連続投稿】

 

読物つれづれとは、私が読んだ本の記録として、感想や気づき、印象に残った箇所を紹介したりするものとなっています。

 

6冊目に読んだ本は、『自分のなかに歴史をよむ』(著:阿部謹也)です。

  

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

 

今回の本も、他の本に関した記事にお決まりのように登場・紹介をしている名古屋市中村区で寺子屋塾をやられている井上淳之典さんの影響で読むことになりました。以前、未来デザインという、とても端的に言えば「これから事業を起こしたりするときに役立つフレームワーク」をやる際にこんなことを言われました。

 

「現在っていうのはどこからどこまでなのか不確定なものなんだよね〜」

 

確かに、現在を今日と認識している人もいれば、今年と認識する人もいるなぁと思いましたが、私は「現在が不確かだからなんなんだ?」とあまりよくわかっていないませんでした。周りの人もそんな感じだったので、井上さんはこの本を紹介されたのだったと記憶しています。(多分、大筋はこんな感じのはず。)

 

そこである一文を読まれたのです。

そのとき読まれた内容は、よく覚えていませんが「私が認識している時間軸ってのは絶対的なものではなく、学校とかではそう習ったけど、私が勝手に思い込んでいるに過ぎないのかもしれない」と思ったことはよく覚えています。

 

ちなみに私がその時に認識していた時間軸ってのは、こんなイメージです。

 

 f:id:hiro22yasu13:20170522233519j:image

 

でもそれは私自身の認識に過ぎないと気付かされた一説があるので紹介したいと思います。

 このようにみてくると、国や民族の全体に大きな影響を与えた大事件や革命などが現在の出発点をなすといえそうですが、それだけではないのです。現在というからには、その中で使われていることばは、少なくとも同時代人である私たちすべてに理解できるものでなければなりません。

 新しい言葉が若い人びとの間で流行したとき、親や先輩の人びとはそのことばが通じないと軽いショックを受けます。ただ世代のギャップを感じたというでけではなく、ことばが通じなくなるかもしれないという恐怖があるからで、時代の違いを感じとってしまうからです。なぜなら、ことばふぁ通じることこそ、現在という共通点の時代をいている同時代人のあかしだからです。

 ですから、明治維新が日本の現在のはじまりであるということはこの点ではむずかしいでしょう。中江兆民の『三酔人経綸問答』は、現代日本語に訳さなければならなくなっているからです。こうして翻訳しなくても理解しうる生活の範囲が現在だということもできるのです。

 ところが良く考えてみますと、私たちが日常生活を送るなかでなにげなくしている行為や行事が、現在だけのものであると必ずしもいいきれないのです。

 たとえば道で煙草をすおうとしてマッチがないとき、通りすがりの人に「すみませんが火を貸してくださいませんか」といえば、たいてい気軽に貸してくれるでしょうし、マッチで煙草に火をつけてくれたあとで、「ではいつ返してくださいますか」と聞く人はまずいないでしょう。ところが、電話をかけようとして十円玉がないとき、通りすがりの人に借りるとしても、返す約束をしなければ借りられないのです。

 ではなぜ火ならよいのでしょうか。いろいろ考え方があるでしょうが、石器時代に人間が火を聖なる共有物とみなしていたことが、私たちの意識の奥深くでいまも生きていて、火を課すことは人間として当然の義務だと考えているのかもしれないのです。

 このように考えてみますと、私たちは現在に生きていながら、私たちの振る舞いや使っていることばその他のなかに、数えきれないほどの過去がしのびこんでいることに気付くのです。ことばはいうまでもなく過去から私たちに贈られたものですから、ことば本来の意味を探ってゆくと、遠く古代にまでさかのぼれることばはひじょうに多いのに、私たちはそのことに気付かず使っているのです。

私たちの意識の奥底にしのびこんでいるのです。 年中行事のひとつの正月も同じです。誕生日を祝うということも過去の再現に他ならないでしょう。毎年誕生日がめぐってくるとき、人びとは今日この日に自分が生まれたのだといいます。抽象的な数の流れとして年月を考えればそんなことはありえないことなのですが、日本人の意識の中では三百六十五日が単位となって、一年たってふたたびまた新しい一年がくり返すという考え方があるので、このように考えるのでしょう。

〜中略〜

 このように考えてくると、現在と過去をはっきりと区別することがむずかしくなります。いわば現在は過去によって規定され、現在の足元に過去が流れこんでいるからです。

 しかしながら、現在を規定しているものは過去だけではないのです。未来もまた現在を規定しています。将来の計画をたてて現在の生活を営む人、受験勉強のために遊びをかかえ塾通いをする人、あるいはもっと大きな計画の準備をするために今日の生活を送る人たちは、未来によって現在を規定しているのです。

 このように考えていきますと、現在はきわめて複雑にみえ、現在とは何かという問いに明確に答えられないように思われるかもしれませんが、どんなに過去に規定され、未来に規定されようとも、現在は現在であるということもできます。私たちは過去がどうであれ、あるいは未来がどうでなろうと、おいしいものを食べれば楽しく、美しい音楽を聞くと心が安らぎ

友人とともにいるときに幸福を感じます。一回限りの生命をうけ、現在生きていることは確かなのですから。

 

 この一説を読むとどうやら、現在というものは過去や未来に影響を受け決められている側面があり、同時に現在によって過去も未来も決められる側面もあるんだろうなと思います。

 過去→現在→未来のように時は流れていると思っていましたが、捉え方により様々な時の流れ方があるんだと気付きました。

 

この本は、ヨーロッパ中世の研究から差別や人と人との関係性を明らかにしよう試みるなど、他にも多く気づきがあったのでまた他の記事に書きたいと思います。

 

おわり。