2017.05.30 【435日連続投稿】
『自分のなかに歴史をよむ』(著:阿部謹也)の一節「生きてゆくことと学問の接点」より
二年間のゼミナールの間で、もっとも大きな出来事はいうまでもなく卒業論文の題目の決定でした。先生はどんなテーマでもかまわないといわれるので、みな一生懸命にテーマを考えるのですがなかなかきまらないのです。私はローマ帝国史に関心がありましたし、日本の問題にも興味を持っていました。ヨーロッパ中世の修道院にもひかれているといった状態で、何かひとつにテーマをしぼることができずにいたのです。そこである日、思いきって先生のところに相談に行ったのです。
〜中略〜
先生は長い間待たせたことを詫び、二人で話し出しました。ところが先生は私がローマ史をやりたいといえば、「それは結構ですね」という具合で、特に反対もせず、かといってそれをやれともおっしゃってくださらないのです。いろいろ話しているうちに先生はふと次のようにいわれたのです。、「どんな問題をやるにせよ、それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね。」
そのことばを聞いて、私はもうほかの質問はできなくなり、そのまま家に帰って白紙の状態でふたたび考えることにしました。
〜中略〜
私は「生きてゆくということはいかに食べるか」だと思っていたらしいのです。そう考えると、それをやらなければ生きてゆけないテーマはあるはずがないのであって、食物さえあればとにかく生きてはゆけると考えていたらしいのです。
しかしそれでは何も進みませんので、生きてゆくことと学問とをつなぐ接点を数歩後退して求めるために、何ひとつ書物をよまず、何も考えずに生きてゆけるか、と逆に自分に問いを発してみたのです。するとその問いには容易に答えが出たのです。そんな生活はできないということが体の奥底から納得できたのです。
そういうわけで、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」を卒業論文でみつけ、それを扱うという結果にはなりませんでしたが、そのような方向で一生その問題を探し続けるという姿勢のようなものはできたように思います。いわば、これが私の研究の原点であったようにいってもよいでしょう。
そのときほど真剣に考えたことはありません。答はだれでも知っている至極当然のことにすぎなかったのですが、それを私は自分一人で考え、自分の体の奥底で納得したのです。
それをやらなければ生きてゆけないテーマ。
この言葉がただただ私の中で強く響いた言葉だったので、書き残しました。
おそらく、それをやらねば生きてゆけないものは何となくあるんだろう。
それを見つけるには時間がかかることも何となく「そうなんだろうな」と思っている。
すぐに見つかるものは、変わりやすい。
じっくりじっくりいろんなところで、色んな人と関わり、色んな考えに触れ、自分に問うことを繰り返すことに時間をかけることで、「それをやらなければ生きてゆけないテーマ」ってものは見つかるのかもしれない。
おわり。