名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.441 〜内田樹『先生はえらい』(前未来形で語られる過去)より〜

2017.06.10  【446日連続投稿】(2016.03.22より起算)

 

最近、以前読んだことがある『先生はえらい』(著:内田樹)という本を読み直す機会がありました。この本は一見読みやすいように書いてあるんですが、書いてあることがよく分からないなぁと思う部分があります。約一年ぶりに読んでみると、以前分からなかった部分がスッと腹に落ちたので紹介しようと思います。

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 「前未来形で語られる過去」の部分より抜粋(p.57〜62)

 

 じゃあ実際に、あなたが聞き手を前にして、過去を回想している場面を想像してみてください。「あのさ・・・」とあなたが過去の出来事を語り出しました。

 聞き手があなたにとってどうでもいい相手の場合を考えてみてください。

 どうですか?あなたの回想はあまり熱が入りませんね。だって、その人にどう思われようと、あまり関係ないから。

 そういう場合に、あなたが語って聞かせるのは、たいていこれまでに何十回も繰り返した「いつもの話」です。自慢話でも、笑い話でもいい。とにかくある種の効果があることが経験的にわかっているので、何度も使い古した「できあいの物語」。そういう話はいくら繰り返しても、あなた自身には何の発見もありません。テープレコーダーで同じ曲をエンドレスで繰り返しているようなものですからね。

 みなさんはまだあまり見聞する機会がないでしょうけれど、オフィス街の居酒屋にゆくと、カウンターで赤い顔をしたサラリーマンが話しているのは、八五%くらいがこの手の話です。こういう話を聞くのも話すのも、ほんとうは時間の無駄なんですけれど、そのことに気づいている人はあまり多くありません。

 

 それとは違って、あなたにとって特別にたいせつな人に向かって過去を回想する場合はどうなるでしょう?

 話のとっかかりはやはり「いつもの話」です。これはしかたありません。でも、話の展開は微妙に変わってきます。

 というのは、「いつもの話」のある箇所に来たとき、聴き手の反応がなんだかつまらなそうだなと、あなたはのあわてる出すからです。

 「お、こりゃまずい。受けていない・・・」と思うと、あなたはとりあえず話の修正を始めます。口調を変えたり、余計な部分をはしょったり、説明が足りないところを補ったり、具体例を挙げたり・・・いろいろと手を加えます(こういう努力は「どうでもいい相手」のときには節約するものです)。

 逆に、相手が乗ってきたら、「お、この話が受けるみたいだな。では・・・」というのでそこをどんどんふくらませてゆく。

 そうやって何十分か話した後、話を語り終えたとします。

 さて、この話を語ったのは誰でしょう?

 あなたでしょうか?

 なんだか違うような気がしますね。だって、たしかに語ったのはあなたなんですが、話し始める前に「こういう話をしよう」と予定していたあなたと、語り終えたあなたは、微妙に別人だからです。あなたは聞き手が「聴きたがっている話」を選択的にたどって、いつのまにかこんな話をしてしまってたわけです。

 では、この話を導いたのは「こんな話を聴きたい」と願った聴き手の側の願望なのでしょうか?

 これも違うような気がします。だって、「この人は、私からこんな話が聞きたがっているのではないか」と想像したのはあなたなんですから。

 つまり、あなたの話をここまでひっぱってきたのは、あなた自身がはじめに用意しておいた「言いたいこと」でもなく、聴き手の(「こんな話が聴きたい」という)欲望でもなく(だって、他人の心の中なんて、あなたにはわかるはずがないから)、あなたが「聴き手の欲望」だと思い込んでいたものの効果だということです。

 そういうものなんです。

 あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意しておいたこと」でも、「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ってたこと」によって創作された話なんです。

 奇妙に聞こえるかも知れませんが、この話を最後まで導いたのは、対話している二人の当事者のどちらでもなく、あるいは「合作」というものでもなく、そこに存在しないものなんです。

 二人の人間がまっすぐ向き合って、相手の気持ちを真剣に配慮しながら対話をしているとき、そこで話しているのは、二人のうちのどちらかでもないものなんです。

 対話において語っているのは「第三者」です。

 対話において第三者が語り出したとき、それが対話がいちばん白熱しているときです。言う気がなかったことばが、どんどんわき出るように口からあふれてくる。自分のものではないんだけれど、はじめてのかたちをとった「自分の思い」であるような、そんな奇妙な味わいのことばがあふれてくる。

 見知らぬ、しかし、懐かしいことば。

 そういうことばが口について出てくるとき、私たちは「自分はいまほんとうに言いたいことを言っている」という気分になります。

 

以前は、『対話において語っているのは「第三者」です。』ということが何を言っているのか全然分からなかったのですが、確かにそうだなって思います。

 

これをよく解るには「対話」ということから知る必要があったんだなぁと思います。

そもそも対話というのは、お互いの考えをぶつけるにとどまらず、互いの考えを受け入れ、変化していくことを対話というのだと私は最近思っています。

 

相手のおかげで変化していく自分は、もはや対話の前の自分ではありません。だから対話において語ってるのは「第三者」なのです。既存の自分の考えてはなく、今まで話し言葉としては存在していなかったけど、言葉になっていなかった思いや考えが相手のおかげで言葉になるから、自分のものではないようだけども、しっくりくる言葉が口から生まれるってことなんだろうな。

 

だから、そういう時がほんとの「言いたいことを言う」って瞬間なんだとビビっときています。そう考えると、言いたいことを知るってことすら自分一人ではなかなか難しいことなんですね。

 

おわり。