2017.06.16 【452日連続投稿】
Facebookには、過去の投稿が見れる機能がありまして、ちょうど一年前に書いた記事を毎日読んでいます。
今日は、一年前の2016.06.16に書いた記事について、リライトで書きたいと思います。
一年前の記事
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本日のつれづれ no.124 〜教育に関わる者としての自戒〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ
新・教育者宣言
人を教育によって変えられると思っている人は教育者ではない。
この子には私が必要だと思い込ませて
その人から離れることができないように
あなたのおかげで今があると思い込ませて
人の心をからめとっていく人も教育者ではない。
人から尊敬され尊敬される人は教育者ではないのだ。
教育者とは、いついかなる場所にいても
そこに育ちたいと思っている人がいたとき、
その人が何々ができる、何々ができないと無関係に
その人が潜在的にしたいと思っていることを
スッと提案できる人なのだ。
相手がその提案にのらなくてもなんの不満も残らない。
相手が提案にのって、何かができたとしても決して恩を売らない。
たまたま、その人が勝手にその提案にのっただけ
私と無関係と心底思える人が教育者だ。
そんな人がいる場所には主従関係も奴隷関係もない。
似た者同士で群れることもない、セクトもできない。
時間と空間を越えて、個と個の関係だけができていく。
引用:『「〜しなさい」と言わない教育』 著:平井雷太
「どんな大人になってほしいか?」と子どもに寄せて考えるのではなく、
まずは「自分がどんな人になりたいか?」という問いが先にあるべきだと思う。
大人になったとしても「自分がどう育つか?」に関心がない人は、子どもを通じて自分を満たそうとしているのかもしれない。
人が変わることに期待しすぎない。人が変わろうが、変わらなかろうが不満なく寄り添うことが、自分が気付かないうちに相手のためになっている。
自分とっての正しいを周りに押し付けない。
日々、相手と対等な関係の中で過ごしているうちに少しずつ変化と言えないようなことの積み重ねが、やがて変化と言われるものとなる。
だから、淡々と目の前の事に楽しめる力が、気づけば変わっていたに繋がるのだろう。
私は教育に関わる自分はそうでありたい。
おわり。