2017.06.20 【456日連続投稿】
4月から書いている記事の内容が本をはじめ他人の言葉を引用して書いていることが多くなっている中で振り返ってみました。
その振り返りの中で生まれたのが、「書くことでの可能性」についてです。
この「書くことでの可能性」を書くことになったプロセスを先日書きました。
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本日のつれづれ no.446 〜書くことでの可能性①〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ
本から言葉を引用するためには、まず読む必要があります。
読んだことがない本の一部を引用する場合でも、その引用する一部は必ず読まなければ引用することはできません。
そして、人それぞれ読み方があると思います。目だけで読む人、声を出して読む人などなどいらっしゃると思います。
本の一部を引用することで、引用する一部の箇所は必然的に読むことになりますが、「書いて読む」と私は捉えられると思います。
「書く」行為は、インプットかアウトプットかといえば、アウトプットなんじゃないかと私は思っています。
しかし、自分の言葉でなく「他人の言葉を書く」ためにはインプットが必須です。
他人の言葉を知らずして、書くことはできませんからね。
「他人の言葉を書く」ことはインプットとアウトプットを同時にやるってことなんじゃないかと私はここ2ヶ月半の経験を通して感じています。
それに気付いたきっかけというのが、普段本を目で読む私にとって、他人の言葉を書いているときの方が遥かに自分の奥に言葉が入ってくる感覚がした体験です。
また読んで分からなかったけど、書くことで分かったと思えることもありました。
「他人の言葉を書く」なんて言っていますが、言ってしまえば模写ですけれども、侮れないなどころか凄いことだと私は思っています。
この体験を通して、
自分の言葉で書くだけが価値じゃない。
自分だけで考えたことだけが価値じゃない。
むしろ、誰かと自分の考えが混ざったものであったり、誰かの影響を受けて自分なりに考えたものっていうのは、価値があるのではないか。
日々、淡々と書いていることで見えてくるものはまだまだたくさんありそうです。
おわり。