名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.469 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ- ①〜

2017.07.11  【477日連続投稿】

 

 日本が地上の楽園などであるはずがなく、にもかかわらず人びとに幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、その根拠はどこに求められるのだどうか。当時の欧米人の記述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間の存するあまりの落差にしばしば茫然たらざるをえない。

 1856年8月日本に着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。

 「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。むろんハリスはこの村がゆたかだとは言っているのではない。それは貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。

〜中略〜

 彼は下田の地に有名な『日本誌』の著者ケンペルが記述しているような花園が見当たらないことに気づいていた。そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かではなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにおれなかったのである。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいでけは食べ、着物にも困っていない、それは家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちが良い。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。これは1856年11月の記述であるが、翌57年6月、下田の南西方面に足を踏み込んだときにも、これはこう書いている。「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を1人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、男女ともすこぶる肉づきがよい、彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.100〜102

 

おわり。