名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.471 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第3章 -簡素とゆたかさ-③〜

2017.07.13  【479日連続投稿】

 

ものに溢れている現代に、ものがあれば幸せってわけじゃないよと言っているかのよう。
ものに囲まれた生活をしていた当時(幕末〜明治初期)の欧米人が、日本人の暮らしを見て思うことは、現代の日本人が当時の日本人の生活を見て思うことなのではないかと思いました。

 

 日本人の家には家具らしきものがほとんどないというのは、あらゆる欧米人が上陸後真先に気づいた特徴である。たとえば、上陸後三日目に横浜の日本人町を見物したボーヴォワルは書く。「家具といえば、彼らはほとんど何も持たない。一隅に小さなかまど、夜具を入れる引き戸つきの戸棚、小さな棚の上には飯や魚を盛る漆塗りの小皿が皆きちんと並べられている。これが小さな家の家財道具で、彼らはこれで充分に、公明正大に暮らしているのだ。ガラス張りの家に住むがごとく、何の隠し事のない家に住むかぎり、何ひとつ欲しがらなかったあのローマ人のようにー隣人に身を隠すものなど何もないのだ」。

 オールコックには、この家具らしきものなしですむ生活というのは、ある意味で羨ましい限りに思われた。「かりにヨーロッパ人同士の夫婦が、ソファや椅子、ならびにそれに付き物のテーブルなどのない家を借りて、清潔な畳の上に横たわることに耐えられるとすれば、年収四百ポンドで結婚生活が営めるかどうかという論争などたちどころに解決して、誰しもが結婚できる見通しをえるだろうことは確実だ。日本においては、若い夫婦が家具屋の請求書に悩まされるようなことはありえない」。むろんこの口調には皮肉がある。彼は日本では、畳を敷いた家と、互いに持ちよる蒲団や衣裳箱と、それに鍋と半ダースの椀やお皿と、大きなたらいがあれば、みごとな世帯ができあがると言う。「牧歌的な単純な生活とは、このような生活のことを言うのであろう」と彼は書く。しかし実は彼が言いたいのは、「われわれが安楽に暮らすために必要不可欠だと考えているもの」が、日本人の生活にはまったく欠如しているということなのだ。ハリスに至っては「日本人の部屋には、われわれが家具と呼ぶようなものは一切ない」とまで書いている。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.120.121

 

おわり。