名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.532 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第13章-信仰と祭-①〜

2017.09.14  【542日連続投稿】

 

 リンダウは「宗教に関しては、日本人は私の出会った中でも最も無関心な民族である」と言う。日本には数多くの寺社があるにもかかわらずそうなのである。僧侶は「いかなる尊敬も受けていない」。彼らは愚かな怠け者で、教義についても何も知らない。仏教神道の区別もはっきりしない。民衆は「宗派の区別なく、通りすがりに入った寺院のどこでも祈りを捧げる」。しかし彼らは信仰からそうするのではなく、神聖とされる場所への礼儀としてそうしているのである。リンダウの所見は文久年間の見聞にもとづく。スエンソンも言う。「聖職者には表面的な敬意を示すものの、日本人の宗教心は非常に生ぬるい。開けた日本人に何を信じているのかたずねても、説明を得るのはまず不可能だった。私のそのような質問はたいてい、質問をそらすような答えか、わけのわからない答えしか返ってこなかった。時に立ち入って聞き出すと、そのうちの何人かは、戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ、などと語ってくれた。・・・社会の上層部、特に知識人の間には、神道にも仏教にも与しない開けた日本人が数多く見出せる。彼らは外見的な神仏信仰を受け、孔子の教えの規範に多少の修正を加えたものに従っている。・・・・その信奉者はふつう、無神論者とみなされている」。これは慶応年間の観察である。チェンバレンは「日本人に、あなたの宗教は何か、仏教神道かとたずねると、まったく困った顔つきをするので」おもしろく思った。しかしこれはけっして、明治という時代の新現象ではなかったのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.529~530

 

おわり。