名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.548 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第14章-心の垣根-⑤〜

2017.09.30  【558日連続投稿】

 

 おのれという存在にたしかな個を感じるということは、心の垣根が高くなるということだった。宿屋の話に戻るなら、同宿の客が騒ぎ始めたとき、まあ俺だって仲間連れならあんなふうに騒ぎたくもなるだろうと観念すれば、一晩を悶々と過ごすことはないのだった。あるいは「賑やかですな」と襖を開けて声をかければ、連中は「どうぞご一緒に」と歓迎してくれるのだった。それができぬのが、あるいはしたくないのがこの自覚というものだった。エドウィン。アーノルドのように、日本の庶民世界ののどかさ気楽さにぞっこん惚れこんだ人は、西欧的な心の垣根の高さに疲れた人だった。しかし、心の垣根は人を疲れさせるだけではなかった。それが高いということは、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させうるということだった。オールコックやブスケは、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていると感じたのである。

 杉本鉞子はアメリカ在住に夫に死なれ、二人の娘を連れて日本へ帰った。しかし彼女はやがてアメリカへ戻らねばならなかった。というのは長女の花野の上に現われた変化に心うたれたからだった。「はたして花野はほんとうに幸福になれるのだろうか。ちょっとも悲しそうには見えないけれど、すっかり変わってしまいました。目はもの柔らかくなりましたが、昔のように輝いてはおりませず、口許はやや下がって、晴れやかな快活な話しぶりは消え、もの静かに和らいできました。これが上品な、しとやかなというものでございましょうか、左様に違いありません。けれども、私の一声に答えて、飛上げってくるすばやさはどこへ行ったのでございましょう。見たい、聞きたい、したいのあの愉快さ、熱心さはどこへ行ったのでございましょう。生活の一切に興味をそそられて、元気一杯だった、あのアメリカ生まれの娘は姿はどこへ行ったのでございましょう」。

 これはたんなる女子のしつけ方の相違ではあるまい。鉞子の家が上流であったために、伝統的な婦徳が花野という少女に求められたというだけでもあるまい。これはこの少女の魂に育ちかけた個の世界が、環境の変化によって窒息させられたということだろう。鉞子自身、若き日青山学院に学んだとき、外国人教師の「表情の豊かさに驚くばかり」だった。彼女の「幼時の思い出の中にある人々は表情が欠けて」いた。モースは言う。「日本人の顔面には強烈な表情というものがない」。強烈な表情を獲得することがしあわせだったか、確乎だる個の自覚を抱くことがそれほどよいことであったか、現代のわれわれはそのように問うこともできる。花野のエピソードは無限のもの思いにわれわれを誘う。しかし、人類史の必然というものはある。古きよき文明はかくしてその命数を終えねばならなかった。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.576~577

 

おわり。