名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.570 〜宮台真司『14歳からの社会学』-「意思」はあるときふと「訪れる」もの-②〜

2017.10.24  【582日連続投稿】

 

昨日の記事は、本日の記事を書こうと思った前置きの話を書きました。

 

簡単且つ本日の記事に繋げていうと、「人間は意思はどうなっているのか?」

という問いについての一つの見解を書いていると言えるでしょう。

 

 「主意主義」と「主知主義」という区別がある。これも、さかのぼれば古代ギリシアにたどり着く考えだ。「主意主義」では、「この世には不条理や理不尽が満ちている」と考える。それを否定して、「人間の知識はすべてをおおえる」と考えるのが「主知主義」だ。

 ぼくは、「何がいいか悪いかは前もってわからない」ことを紛争の経験から学んだ。これは「主意主義」の立場そのものだ。社会学は「主意主義」の立場だ。社会学では人が何かしたとき、社会のせいだけにしない。「その人が意思したから」と「意思」を出発点とする。

 たとえば君がおにぎりを食べたとする。なぜ君はおにぎりを食べるという行為を「選んだ」か。それは「意思」したからだ。その「意思」は、君にあるとき、ふと「訪れて」その人を前に進める。

 ひさんな事件が起こると、「家庭環境が・・・」「社会が・・・」という話になる。でも、そうした背景は、事件を起こした人に「前提を与えた」だけだ。家庭環境や社会は、行為の前提をあたえるだけなんだ。その前提のもとで、その人が何をするかは、彼や彼女の「意思」による。

 「意思」は、あそこに山があって、ここに川があって、ということがらと同じで、「訪れる」ものだ。「意思」というおおもとからわか!た「意思」を」 「意思する」ことはできない。この考え方を覚えておくといい。

 ぼくが社会学者だというと、なんでも社会のせいするとか、なんでも理屈で考えるというイメージわ持たれがちだ。けれど、それはあり得ない。「意思」は「意思」じゃないものに還元できない。社会学者は「意思」の前の前提となる社会について分析を加えるだけだ。

 「意思」は人間の理解をこえる。人間の考えた理論にとっては「こわい存在」だ。社会学では、こわくないように「その人が選んだ」というふうにいい方を加工する。その上で、「それを選んだ背景」を分析する。けれど「その人が選んだ」という事実は消せないんだ。

 

宮台真司『14歳からの社会学』p.56〜58

 

人間の行為というのは、何か原因があるわけでも目的があるわけでもない。

人間の行為というのは、何か原因があり目的があるということ。

 

どっちもありうるのだろう。

先ほどの一節にあったこの文章の言う通りなのだろう。

『「意思」という大もとからわかれた「意思」を「意思する」ことはできても、おおもとの「意思」を「意思する」ことはできない』

ふと訪れた「意思」を自分が「どう意思するのか」ここにポイントがあるんだと思いました。

 

おわり。