2017.11.11 【600日連続投稿】
今回の記事はこの記事のつづきです。
本日のつれづれ no.584 〜國分功一郎『中動態の世界』-行為は意志を原因としない-〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ
だが、スピノザの考察は「自由意志の否定」をもって終わるのではない。スピノザは、にもかかわらずなぜわれわれは、「行為は意志を原因とする」と思ってしまうのか、と問うことを怠らない。その著書『エチカ』では、意志の自由を否定する箇所に続いて、次のような印象的な挿話が語られている。
われわれは太陽の光を浴びると、それがまるで自分たちのすぐ近くにあるかのように感じる。太陽があまりにも強いエネルギーを発しているからである。もちろん、太陽はわれわれのすぐ近くにはない。だからわれわれは、太陽を自分たちの近くにあると感じることそのものが誤りであるかのように考えてしまう。
しかし、スピノザによればそうではない。
なぜなら精神はここで、身体が受ける刺激に基づいて太陽のことをイメージしており、またそのような刺激を身体に与えることは、太陽がもつ特性の一つだからである、もし太陽までの真の距離を知らなかったとしたら、この知識の欠如は誤謬と言われうる。だが、太陽までの真の距離を知ったとしても、太陽の光を浴びれば、われわれは「やはり太陽をちかくにあるものと表象する」のだ。
太陽の光と人間身体が出会ったとき、両者のもつ特性ゆえに、そのような効果が発生する、スピノザは意志についても同じようにこれを効果として考えた。われわれの精神は物事の結果のみを受け取るようにできている、だからこそ、結果であるはずの意志を原因と取り違えてしまう。そのことを知っていていたとしても、そう感じてしまう。「われわれが意志の表れを感じる以前に脳は活動を開始しているのだよ」などと訳知り顔で語る学者もそう感じているし、それを教わった人もそう感じ続ける。
そもそも、哲学者ハンナ・アレントが意志をめぐる考察のなかで明確に指摘してるように、スピノザは意志の自由を否定したのであって、「意志が主観的に感じられた能力としては存在していること」についてはこれをはっきりと認めているのだ。スピノザは自由意志の不可能性がどれだけ認識されようとも、意志は効果としては残ると考えたからである。
國分功一郎『中動態の世界』p.30~32
要するにスピノザは「意志は、行為の原因ではない。しかし、人間はそのような意志が現れた背景や理由は意識できないから、どうしても意志から認識するものだから。意志が行為の原因だというように感じてしまうものなんだ。」とまとめることができると思いました。
久しぶりに哲学っぽい世界に入っております。
おわり。