名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.616 〜國分功一郎『中動態の世界』-意志と選択は違う-〜

2017.12.10  【628日連続投稿】

 

 「人はプロアイレシスという選択の能力は意志の先駆けであると結論したくなりがちである」。

 これはもちろん、どれだけ意志の能力に似かよっていようとも、プロアイレシスは意志の能力ではないということである。どういうことか詳しく見ていこう。

 アレントはまず、もう一つ別の哲学用語を引き合いに出す。それが、中世にさかんに論じられたラテン語の哲学用語、「リベルム・アルビトリウム liberum arbitrium」である。この語はしばしば「自由意志」と翻訳されるけれども、これは正確な翻訳ではない。arbitriumはもともと、「判断」や「判決」といった意味であり、したがって、どちらに理があるかを判断するという意味での「選択」でもある。そこに「自由な」意味を形容詞liberumが付されている。

 さて、リベルム・アルビトリウムは、何か新しいことを始める自発的な力とか、他の何ものにも支配されず自らの法則のみに従う自律的な能力のことではない。「リベルト・アルビトリウムは、自発的でも自立的でもない」。リベルム・アルビトリウムは理性の指導や欲求の誘いに基づいて行われる選択である。

 そして、アレントによれば、アリストテレスの語ったプロアイレシスとは、まさしくそうした能力のことであるのだ。それは「欲求に伴う知性」であり「思考を伴う欲求」であったのだから。

 すなわち、プロアイレシスに対応するのは意志ではなくて、リベルム・アルビトリウムだと考えねばならない。それは自発的・自律的に何かを始める能力ではなくて、理性が肯定し、欲求が追求する、そうした何ごとかを選択する能力に他ならない。

 

國分功一郎『中動態の世界』p.127~128

 

これは意志と選択の違いの一つに過ぎず、これからさらに深まっていきます。

 

おわり。