2017.12.13 【631日連続投稿】
私は好きな食べ物はズバリ唐揚げです。少なくとも一週間のうち4食は唐揚げを食べてるんじゃないでしょうか?
そんな私にとって「唐揚げを食べることは、意志でなされているのか?選択によってなされているのか?」ということを考えて見たいと思います。
参考にする文献は、最近ブログに頻繁にあげている『中動態の世界』(著:國分功一郎)です。
まず、意志と選択の言葉がどのように異なっているのか見てみましょう。
意志の概念は責任の概念と強く結びついている。このことは「意志」が、その日常的用法においても何ごとかを始める能力として思い描かれていることを意味している。何らかの行為を自らの意志で開始したことと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである。
ある行為が過去からの帰結であるならば、その行為をその行為者の意志によるものと見なすことはできない。その行為はその人によって開始されたものではないからである。たしかにその行為者は何らかの選択はしたのだろう。しかしこの場合、選択は諸々の要素の相互作用の結果として出現したのであって、その行為者が己の意志によって開始したのではないことになる。
日常において、選択は不断に行われている。人は意識していなくても常に行為をしており、あらゆる行為は選択である。そして選択はそれが過去の帰結であるならば、意志の実現とは見なさない、ならば次のように結論できよう。意志と選択は明確に区別されねばならない。
國分功一郎『中動態の世界』p.130~131 一部抜粋
以上のことを踏まえていうと、
まず唐揚げが大好きな私の場合は「唐揚げはめちゃ美味しい」と知っている。
美味しいと知っていることは、過去に食べた経験があるからである。
その時点で既に、過去に帰結しており、選択をしていることになる。
よって、「唐揚げを食べること」は自分の選択である。
逆に、「唐揚げを食べること」を意志だと考えるならば、このような状況でなければいうことはできない。
まず、唐揚げを食べたことも見たことも、聞いたこともない。
過去に何の帰結しない、過去から見ても何も知らない。ということが必要だろう。
もっと言えば、鶏肉は食べられる、他人から食べるように唆されていない、過去や周りから何も影響を受けずある時突然唐揚げを口にした。そのそのような状況がもしあるなら、意志で「唐揚げを食べる」ということができるだろう。
よく「自分の意志を持て」など耳にすることがある。進路や今後のことを迷っている人に、言われてそうだ。
でも、よく考えれば「意志を持つってことは、0から何か始めろ」と言っているに等しいことのように思える。
言葉っていうのは、難しい。使う人が10人いれば10通りの意味で使うし、聞く人が10人いれば10通りの意味で聞く。
だからといって、明確に決まっていた方がいいなんてことはなく、それぞれがどんな使い方や聞き方をしているのかを知っていく気持ちがあれば、言葉以上に分かることができるんじゃないかと思っている。
今夜は、唐揚げが食べたい気分です。
おわり。