2017.12.20 【638日連続投稿】
アレントはカツアゲを開設するにあたり自発性の概念のみに言及していたが、実はここではもう一つ別の概念が問題になっていたのだ。それが同意の概念である。つまり、カツアゲされた人物がお金をポケットから取り出して手渡す行為は次のように説明すればよかったのである。たしかにこの事例における私の行為には自発性は存在しないが、しかし、同意は存在する、と。
アレントはここでの私の行為を「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」と形容した、そのうえで、アリストテレスのような考えでは、強制がない場合には自発的とされてしまうというかなり無理のある解釈を提示した(実際にはアリストテレスは、自発的とも日自発的とも言えるとの曖昧な解釈の可能性を残していたにもかかわらず)。
しかし、強制はないが自発でもなく、自発ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できるのだ。
國分功一郎『中動態の世界』p.158
能動か受動かという判断をしてしまいがちであるが、能動ではないが相手に同意してやっていることは日常にありふれている。
学校現場にいると主体的な学びという言葉を耳にすることがあるが、「主体的とはなんだろう。」と毎回思っていた。こちらから提案したことに対して乗ってくれるのは受動的で受け身で、自らあれやりたいこれやりたいってのが、能動的で主体的なのだろうか。
後者が、主体だと考える場合は、たとえ同意を取れたと思っても、それは相手が言ったことに流されていると判断されがちだと思っているからではないだろうか?
そうなると、いかに同意を取るかどう同意を取れば了解とするか。ということが問題となってくるだろう。
「どう同意を取れば、了解とするか?」
これは、私の日常にありふれた問いであると思いました。
毎日考えているけど、上手い答えが見つかっていません。
同意ということからまずは見つめなおしてみようと思いました。
おわり。