2018.01.23 【672日連続投稿】
1年間くらい積ん読本であった東京大学教授 安富歩さんの『生きるための論語』を読むタイミングが来たような気がして、少しずつ読み進めようと思います。
論語は、中学生?高校生?の時に国語の授業でやった気がしていますが、よくわかっていませんが、論語を通して何を学ぶかということに関して、この本は漢文が読めなくとも大丈夫で、論語の核心に触れれると思っています。
子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
このわずか三二文字の中に、『論語』という巨大な宇宙を支える基本思想が凝縮されている。その基礎基本は言うまでもなく「学」と「習」である。
これに対する伝統的な読みは、色々な学者によっていうことが微妙に違うが、だいたい、似たようなものである。たとえば岩波文庫の金谷治は次のように訳している(なお、本書での『論語の章の区切り、白文については原則として金谷にしたがった)。
【金谷訳】先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね。〔そのたびに理解が深まって向上してくのだから。〕だれか友達が遠い所からもたずねて来る、いかにも楽しいことだね。〔同じ道について語りあえるから。〕人がわかってくれなくとも気にかけない、いかにも君子だね。〔凡人にはできないことだから。〕」
伝統的な解釈では、「学」は何かを教えてもらう、勉強することであり、「習」は練習したり、復習したりすることであり、「人不知」は他人が自分を認めてくれない、という嘆きである。
しかし私は、このような解釈ではしっくりこない、と思う。というのも、私はそもそも勉強が嫌いだからである。その上、復習や練習はもっと嫌いであり、そんなことをやっても、よろこばしくなったりはしない。それに、人が認めてくれるかどうかという問題に言及している段階で、あまり立派な感じがしない。学問というものは、そういうものではない。
勉強や復習をして、それ自体で、よろこばしくなる人は、どのくらいるのだろうか。もしいるとすればその方に、「それは、本当によろこばしいのですか」と私は聞きたい。
安富歩『生きるための論語』 p.14~15
おわり。