2018.02.13 【693日連続投稿】
孔子が魯の始祖である周公を祭る太廟に入ったときのことである。田舎出身の礼学者である孔子は、祭礼において事ごとに長上の経験者に「これは何ですか、あれはどういう事ですか」と訪ねて回った。これを見てある人が「あの鄹から来た田舎者、礼の先生だと誰が言ったのか。太廟では、なんでもかんでも聞いて回っていたぞ」と謗った。この悪口が孔子に伝わると、「それが礼なのである」と答えた。
〜中略〜
例の教師という触れ込みで太廟に現れた男が、何でもかんでも質問していれば、あきれるのは当然である。孔子は明らかに太廟の例を知らなかった。そして、知ったかぶりをせずに、無知を隠しもせずに聞いて回るという姿勢は、「(礼/非礼)→礼」という信念、すなわち、何が例で何が非礼であるかを常に探求する態度がすなわち例である。という信念を背景とすれば、不思議でも何でもない。それまさしく忠恕であろう。
安富歩『生きるための論語』p.92.95
この章では「礼」とは何かについて書いてあるが、印象の冒頭部分は章の導入として書かれています。礼とは何か?という話題を脇に置いて今日は書いています。分からないことつまり、無知を自覚して起こす行動は、周りから見たら「こいつこんなことも分かってないのか、ダメだな」と思われる可能性がなきにしもあらずである。でも、そんな周りの目を気にすることがナンセンスで、知ったかぶりをせずに無知を自覚することが、分かる方向に向かうのです。
最近、知ったかぶってしまったことがあったので、心に刺さりました。
おわり。