名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.683 〜対話とは、聞き手と話し手がが行うコミュニケーション行為〜

2018.02.19  【699日連続投稿】

 

インタビューゲームでは、ペアをつくり聞き手と話し手に分かれてインタビューを行います。そして、「聞き手」が重要だということをルールからも感じられます。

なぜ、「聞き手が重要なのか」?

著者(中原淳 長岡健) の『ダイアローグ 対話する組織』に、丁寧に書かれていました。

 

 対話の定義② 聞き手と話し手で担われる

定義の②では、聞き手と話し手の最低二人の主体が必要ということを述べています。ギリシア語で対話は、「ディアロゴス」といいます。「ロゴス」とは言葉のことで、「ディア」とは「分かちもつ」ということです。対話とは「言葉を分かちもつ」ことであり、これが可能になるためには、最低二人以上の主体が必要になります。そもそも聞き手がいない状態は単なる独り言であり、その人の中にある考えが表出しない限り、コミュニケーションにはなり得ません。

 とはいえ、聞き手がいるからといって、必ずしもコミュニケーションが成立するというわけでもありません。話し手が聞き手に対して一方的に話して「ああ、あなたに話を聞いてもらえてすっきりしたわ」となっているような状況は、やはり一方通行の「独り言=モノローグ」であって「対話」とはいえません。

 言葉を口に出すことは簡単です。誰かをつかまえて、言葉を投げかけることも簡単です。しかし、「相手に言葉を投げかけること」は、けっして、「相手と自分とのあいだに対話が成立していること」を意味しません。言葉を投げかけていても、受け手には届いていない。届いているつもりでも、届いていない。こういうことは容易に予想がつくことです。それでは、対話を実現するために、私たちは何に留意するべきなのでしょうか。

 それは、「聞くこと」だと思います。この重要性を強調しすぎてもしすぎることはないので、あえて「聴く」という字を使いましょう。この対話の本質は「話すこと」ではなく、「聴くこと」からはじまるのです。

 なぜなら、誰かが「話し手」として口火を切り、話を継続するためには、誰かが「聞き手」という役割を引き受ける必要があるからです。加えて、「聞き手」として役割を引き受けていることを、話し手に意図的かつ非明示的に「呈示」する必要があるからです。会話分析などで多くの社会学者がこれまで明らかにしてきたように、「聴くこと」は積極的かつ意図的な行為なのです。

 対して、一般的に「聴くこと」は誰でもできる「受動的な行為」だと考えられています。耳を通して脳内に聴覚情報を受動的にインプットすることが「聴くこと」であるとするのならば、それは誰にでもできることかもしれません。しかし、それは彼が「聞き手」であることを意味しません。「聞き手になる」とは、相手の話にじっくりと耳を傾ける役割を担う「積極的、かつ、意図的な行為」なのです。

 私たちはふだん「聞いている」かもしれません。しかし、本当に「聴いているのか」というと、それは疑わしいのではないでしょうか。直近数日の人々との会話を思い起こしてみてください。あなたは、「聞いて」いましたか?それとも「聴いて」いましたか?

 もちろん、相手の話の腰を折ったりするなどの不作法は、さすがに多くの方々が避けるでしょう。しかし私たちは、人の話を聴くときに、「即時の自分の判断」をどの程度保留し、虚心にその人の話に耳を傾けることができるでしょうか。相手の話を聞いていて、答えを即断・即答したくなかったとしても、そこは判断を保留し、「聞き取ること」をどの程度重視できるでしょうか。こういうと、私たちは「聞いているつもり」でも、実は「聞いていないこと」が多いことに気づかされます。

 いずれにしても、対話においては、話し手と聞き手が、おったん自分の考えや意見を保留にし、お互いが言っていることを「聞き取り」、やりとりを続けることが重要です。

 

中原淳 長岡健 『ダイアローグ 対話する組織』p.91〜94

 

おわり。