今日は、同い年の友人である櫻井祐亮くんがやっている
日本鍼灸「桜の日々」に行ってきました。
マンションの一室をリノベーションして、落ち着きのある空間でした。
1番驚いたのがこれ!凄い足湯!!
ホントに「凄い足湯」というコンテンツなんです。笑
何が凄いかというと、目に付けてるやつで自分が海の中に入ってる感覚なんです。
(ちなみに、サメに囲まれていました。)
今までサッカーとかしてきて、色んな治療とかケアを受けてきたり、少しでも自ら学んだりしたけど、祐亮くんの何が凄いかっていうと
「治療院に来なくていいように治療する」
そんな印象を受けました。
目的が、気持ちいいマッサージを受けたいという人にはちょっと満足は得られないかもしれない。
それは、祐亮くんがその人の体の不調の原因に一緒に向き合って、
いずれはその人がもう治療に来なくていいように支援していく感じだから。
説明も論理的というよりも体感によって体に教えてくれる。
整体でもなく、治療院でもなく、何だここは??って思った。
世間的には、癒しを求めてこういう場所に行く人が多いと思う。
最近読んでいる「普通がいい」という病という本の内容の一部とリンクした。
「癒し」という言葉は、疲れを取ったのちに元の生活や元の自分に戻っていくというニュアンスをどこか含んでいて、たとえわずかであっても、「生き物」らしく変化・成熟を進めて変わりたいというベクトルが見えないのです。「生き物」とは、常に変化するがゆえに生きていると言えるのであり、そのダイナミズムがそこには欠けています。
私たちの意識も、日々新しく自分があるのだというイメージで自分自身を捉えることの方が、より現実にも即しているのではないだろうか。その点で「癒し」という言葉には、ごく微量であっても、「昨日・今日と変わらぬ明日」という非生物的なイメージのどくが含まれていると思われてならないのです。
痛みがあるということは、体が何かしら自分に教えてくれている。
しかし、痛みを取り除くだけの治療によって体からの伝達を無視するのは自然に反すると思う。
また、依存を生むとも思った。
痛みをが生じたら、痛みを取り除けば良い。
そすることで、更なる痛みと更なる治療が生まれる。
終わることのないサイクルがはじめる。
そんな側面を「癒し」は含んでいたのか。
安心できたり、しっかし休んだりするのはもちろん大切。
でも、それは前を向くためのものであると思う。
癒されるために生きるのか?
生きるために癒されるのか?
桜の日々に行ったことで深まりました。
↓桜の日々↓
おわり。