内容は昨日の記事と関連したことを書きたいと思う。
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読み返して思ったことは、
なんで人は周りの誰かを批判したりするのか?ということ。
ちょうど今読んでいる「普通がいい」という病(著:泉谷閑示)から考えてみたいと思う。
自由というものは、なんの指針もなければ、その小径が正しいのかと問われても答えようがないもので、自分の判断以外に当てにできるものはない。マニュアルもなければ他人との比較も出来ないし前例すらない。これが自由ということの大変さなのです。そして多くの人は、このリスクが怖くてしょうがない。それに比べて、大通りは不自由だけど安全。これが、人々を大通りに強くひきつけている最大の理由であるということなのです。
大通りの人たちは、必ず徒党を組みます。彼らは、内に不自然さ、窮屈さを無意識的に抱いているので、どうにかしてそれを打ち消しておく必要がある。そうでなければ、自分たちの大通りが間違った道である。ということがバレてしまう。打ち消すには、井戸端会議的に徒党を組むのが一番手っ取り早い。「ね、そうよね。私たち正しいわよね。あの人はちょっと変よね。」というようなことを言って、大通りを外れた人のゴシップをネタに、自分たちを正当化して安心するわけです。巷にあふれているワイドショーやゴシップ週刊誌は、そういう人たちの根強いニーズがあるからこそ成り立っているわけです。大通りの人にとっては、「人の不幸は蜜の味」なのです。自分が幸せな場合には、そんなもの見たいとも思わないでしょうし、むしろあさましく思えて不愉快なものですが、大通りを行く人がたくさんいる限りは、こういうものもなくならないでしょう。自分で自分を認められていない。
自分で自分を満たせられない。
外的なものから認められないと、不安や焦りなどから逃げられない。
だから、そういう人は自分たちと違った人をディスる。
ディスることで自分を正当化する。
ディスることで自分の存在を確保する。
ディスることで自分を満たす。
もしかしたら、寂しい人たちの集団なのかもしれない。
僕らは、一人のようで一人じゃない。
僕らは、一人じゃないようで一人なんだ。
誰が悪いとかでもない。
責任はどこにもない。
生きるためにやっていることだと思うから。
でもね、僕は居心地がいい場所にいたい。
僕がそう思うならやればいい。
まずは、自分の周りのから灯していく。
どんなに小さな光でもきっと誰かに届く。
灯し続けているといつかきっと人がっていく気がする。
自分から、自ずから。
おわり。