2017.02.23 【339日連続投稿】
頑張っていない子どもなんていないとふと思いました。
それぞれの可能な範囲で頑張っていると心底思っています。
学校で眠ってしまう生徒は、24時間や1週間など大きな時間枠で捉えると「そりゃ学校で寝てしまうよな」と思うような生活をしていたりしており、その子自身に全て責任があるとは言えない気持ちになります。
私の目の前にいる子どもの姿は、一側面でしかないですし、関わる人が変われば子どもも変わるのだと思います。
だから、「この子は、私の目の前ではだらしないからダメ」「人を選んでやっている」という考えは範囲を狭くして子どもをみていることになると私は思っています。人を選ぶのも力だと思うようになってきました。
そもそも、「相手の行動をだらしない」と捉える自分自身の捉え方を見つめ直す方がいいと思うのです。
目の前のその人を変えたいと思うのは、自分の欲望が大部分を占めると思うからです。相手を支配しようとまではいかなくとも、少なくとも相手を自分が思っているように動かしたいと思っていることに無意識でいることは、私は好きではないです。何か違和感を感じた時は少なくとも「相手」と「自分の捉え方」という二軸で分けて考えた方が、変な思い込みを外せるように思います。
「頑張らなければ、成長しない」
または、「頑張れば、成長する」
そんなことを無意識に思っていた自分がいるような気がします。
「頑張るってなんだ?」
「成長するって、何を持って成長というんだ?」
子どもたちをみていると、日々過ごしているだけで成長しているように思える。
それは、こちらが求めなくともすでに頑張っているということなのだろうか?
成長ということが、できることが増えることだけでなく、幅が広がることや深められたりすることも成長であると思うから、過去のその子どもと今のその子が変化していれば成長なのかもしれない。
そもそも頑張らなくても人は変わってゆくのだから、子ども限らず人は勝手に成長するということになるな。
だから、肩の力を抜いて今やれることを淡々とやることで自然と成長は促進されるのだと思いました。
私の中では「頑張ること」と「成長」の因果関係はなさそうです。
おわり。