名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.440 〜意味や価値がなくてもいい〜

2017.06.08  【444日連続投稿】

 

一日のの出来事や感じたことに対して、意味や価値をどうしても見だしてしまいたいと思っている時っていうのは、なかなかブログの記事が書けないとき何だと思います。

 

今日のこの出来事は、こういう自分にとっては意味があって学びになったんだ。

 

というようなことを前までは書いていたようなんだけれども、どうも最近はそういうことは書く気になれない。

 

何でかっていうと、 毎日そんな自分が過ごしてた日々に意味づけするなんてことはいらないんじゃないかって思います。私自身の場合、無理やり意味づけしようというもんなら、自分の満たされたいであったり、充実した日々を送りたいという欲から意味づけを施しているにすぎないのではないかと思うのです。

今までの人生、そんな意味づけしようのない日々もたくさん過ごしてきていると思います。そうなると、自分にとって意味があること、価値があることしかやらない考えないってことになりますし、いっちょ前に、自分はこんなこと知りましたよ、学びましたよってことはそんなに毎日言えるもんでもないと思うんです。

 

じゃあ、一応毎日続けているこのブログは何だって聞かれると「意味や価値がなさそう」だけど続けているものなんだと思います。

はじめから、意味や価値がありそうなことを書こうと思って書くのではなく、「なんで自分はこんなこと書いてるんだろう?」ってくらいの気持ちでいるときの方が、自分は性に合ってると思います。

 

大切なことはすぐには分からないものだと、最近つくづく感じていることでもありますし、何かと何かが結びついてこうなるっていうのも一側面でしかなく一概に言えないと思うようになってきたので、意味や価値を見出すってことも、簡単なことじゃないです。

 

自分から積極的に何かを生み出そうとすることも大切だと思いますが、果たして本当に自分から生み出されているのかと言ったら言い切れないのではないかと。

このブログはすら、自分が書こうとする気持ちや意志だけでは続かないんだと最近思うようになってきました。

誰かが見てくれていたり、自分がいろんな人と関わったり経験をしていたりする中で表現することを周りから許されていたりすることは自分の意志を越えたものでやってるんでろうと思います。

 

それは、日常も同じで自分ではどうしようもないことの中に、良い悪いなんて言えないことあって、誰かを責めたり自分を傷つけたりする必要なんてないことばかりです。

 

意味や価値がなくても私たちは生きていくわけで、「それなりに生きていればよし」って思ってるくらいが私の場合はちょうどいいんだと思うそんな気分です。

 

ふと電車の中で、購入して1ヶ月くらい経ち読み始めた『フランシス子へ』(著:吉本隆明)を一日で読み終わって、ブログを書いているとこんな感じになりました。

次回の読物つれづれに書こうと思います。

 

おわり。