2017.06.15 【451日連続投稿】
「伝わらないことの価値」を再確認。なんとなく「伝わることはいい」への違和感。
伝わることは「いいこと」だと 思っていましたが、近頃は何だか違和感を覚える場面もあります。
伝わらない時って、何だか悲しい気持ちになったり自分の気持ちが理解されずショックになったりすることがあると思いますが、伝わらないからこそ「伝えよう」「伝えたい」という姿勢が生まれるのだから、全くもって問題なしと思えるようになってきました。
普段は、仕事で特別支援学校の講師をやっています。できるだけ、仕事のことは書かないように努めているのですが、今日は仕事で得られた経験、感覚があると伝わりやすいのかなと思ったので少しだけ触れてみようと思います。
特別支援学校に限らず普通校も同じく、生徒と会話をする時間は一日の中で多くあると思います。その会話について考えてみると、教師が生徒の気持ちを察して返答したり行動したりということが結構多くあるのではないかと思います。
例えば、単語だけで伝えようとしたり話しかける相手に呼びかけなしで誰に言ってるのか分からない発言であったり、そんな具合な伝え方でもなんとなく伝わってしまう、場面が私は多くあるなぁと実体験の中でそう思います。
今までは、ここで「たった一言で伝わってるのはすごいなぁ」と思っていました。特に、昨年勤め始めた時には、私は全く生徒が何を伝えようとしているのか分からないのに、長く一緒に過ごしている先生は分かっていて「すごいなぁ」と思っていました。私も2〜3ヶ月ほど過ごしていると、ほとんど分かるようになってきて「一言でも伝わってしまう相手」となりました。
でも、普段そういうような「つい伝わってしまう」コミュニケーションをしていると、「伝わること」と「伝わらない」を分けて生きているのではないかと思うようになってきました。
「つい伝わってしまう」というのは、実は「伝わっているのではない」と私は思います。相手の主観の中で勝手に判断したことが伝えたかったことと大して違いがないということなのではないかと思います。だから、聞き手が勝手に判断した相手と話し手の伝えたかったことの食い違いが大きいと明確な「伝わらない」ということになるのでしょう。
そんな時に、最も大切なことが「確認し合うこと」なんだと思います。
確認し合うことはで、お互いのズレを合わせることが「伝わる」になるのだと思うからです。
そして、「確認し合う」ためには「伝わらない自覚」が必要です。なんとなく分かるけど、分かっていないのだったら「分からない」「伝わっていない」という自覚があるから「確認し合う」行為が生まれるからです。
私の場合は、「なんとなく伝わる」ってことは、職場では顕著に表れている気がしていますが、それ以外にも住んでいるシェアハウスであったり友人との間でも起こっているんだと思います。こっちは相手のことを良いなぁと思っていても、相手もこっちにいいなぁと思ってるかは繋がらないこともあります(時々、話さなくてもお互いのことが分かってるという関係性を聞きますが、今のところ内心そんなのないだろと思っています。)
コミュニケーションについて考えるということは、やはり技術ではなく私とあなたの関係性ついて考えることであるんだなぁとつくづく思うようになってきました。
今の自分の環境が、コミュニケーションというものを考える上で良い環境にいるので、最近はコミュニケーション関連の記事が多くなっていることも自覚しております。
今日はこの辺で、留めておこうと思います。
おわり。