名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.463 〜渡辺京二『逝きし世の面影』 第1章-ある文明の幻影-③〜

2017.07.05  【471日連続投稿】

 

 昨日の記事では、幕末の頃に日本を訪れた外国人の記録から日本をみたら、賞嘆する声が多数あったということを書きました。

 本日のつれづれ no.462 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第1章-ある文明の幻影-②〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

 しかし、本書では「その外国人が元々日本好きだったんじゃないか?」「色眼鏡をかけて日本を見ていたのではないか?」という指摘についても熟考されている。

 

むしろ、この考えがあるからこそ、『逝きし世の面影』は価値ある本なのだと私は思いました。

 

   問題はいまや明らかである。異国から来た観察者はオリエンタリズムの眼鏡をかけていたかもしれない。それゆえに、その目に映った日本の事物は奇妙に歪められていたかもしれない。だが彼らは在りもしないものを見たわけではないのだ。日本の古い文明はオリエンタリズムの眼鏡を通してみることのできるよなある根拠を有していたのだし、奇妙に歪められることを通してさえ、その実質を開示していたのである。

 彼らは古い日本に親和と賞嘆をおぼえただけでない。違和と嫌悪もまた彼らの実感だったのである。問題は、賞嘆するにせよ嫌悪するにせよ、彼らがこれまで見たことのない異様な、あえていえば奇妙な異文化を発見したということにある。発見ではなく錯覚だということはたやすい。だが、錯覚ですら何かの錯覚である。その何かの存在こそ私たちのいまの問題であるのだ。彼らの賞嘆がどれほど的はずれであり、日本の現実から乖離した幻影めいたものであったとしても、彼らはたしかにおのれの文明と異質な何ものかの存在を覚知したのである。幻影はそれを生む何らかの根拠があってこそ幻影たりうる。私たちが思いをひそめねばならぬはその根拠である。

 古い日本が異邦人の目に妖精の棲む不思議な国に見えたり、夢とおとぎ話の国に映ったりしたとすれば、それは古い日本の現実がそういう幻想を生じさせるような特質と構造をそなえていたということを意味する。それが賞嘆に値する実質をもっていたか、それとも批判するしかないしろものであったかは、われわれの直面する問題の中核を構成しない。われわれはもはや、それに一喜一憂するような状況の中に生きていないからである。いずれにせよ、欧米人観察者にとって目をみはるに足る異質な文明が当時の日本に存在したということが問題の一切なのである。

 彼らによって当時の日本が、小さいとか、かわいらしいとか、夢のようなとか、おとぎ話のようなといった形容が冠されていることの意味を、軽々しく反発はぬきにして、私たちはもう少し沈思してみてよいのではなかろうか。このような、後には常套句に堕した形容の背後には新鮮な驚きがある。もちろん、そのおどろきは、彼ら欧米人の当時の文明を基準としてのおどろきだったのである。つまりそこには、何をもって文明の基準とするかという点について非常な落差が存在する。先にも述べたように、彼らは自分たちの文明の決定的な優位性については揺るがぬ確信を抱いていたが、西欧文明とまったく基準を異とする極東の島国の文明に接したとき、自信とは別に一種のショックを受けずにはおれなかった。このような、”小さい、かわいらしさ、夢のような”文明がありうるというのは、彼らにとって啓示ですらあった。なぜなら、当時の彼らが到達していた近代産業文明は、まさにそのような特質とは正反対の重装備の錯綜した文明であったからである。

 

渡辺京二『逝き世の面影』 p.52〜53

 

おわり。