2017.07.18 【484日連続投稿】
通商条約締結の任を帯びて1866年来日したイタリアの海軍中佐ヴィオットリオ・アルミニヨンも、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国はほかにはない」と感じた一人だが、彼が「日本人の暮らしでは、貧困が暗く悲惨な形であらわになることはあまりない。人々は親切で、進んで人を助けるから、飢えに苦しむのは、どんな階級にも属さず、名も知れず、世間の同情にも値しないような人間だけである」と記しているのは留意に値する。つまり彼は、江戸時代の庶民の生活を満ち足りたものにしているのは、ある共同体に所属することによってもたされる相互扶助であると言っているのだ。その相互扶助は慣行化され制度化されている面もあったが、より実質的には、開放的な生活形態がもたらす近隣との強い親和にこそその基礎があったのではなかろうか。
開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田圃に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何ら防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に語っている」。
渡辺京二『逝きし世の面影』p.158.159
おわり。