名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.511 〜渡辺京二『逝きし世の面影』第9章-女の位相-⑤〜

2017.08.24  【521日連続投稿】

 

 英国公使夫人メアリ・フレイザーは、公使館で「隔週に英文学の読書会を、それのない週にはこの翻訳の朗読会」を開いていた。それは彼女が興味と共感を抱く日本婦人の人生に少しでも近づきたいからであり、あまりにも知的な楽しみから隔てられている日本婦人に、来日以来の親切のお返しをするとともに、別の多くの点で彼女たちから教えてもらいたいからだった。彼女は何を日本の女から学びたかったのだろうか。会が進むとともに感動した聴衆からさまざまな反応があったが、その一人がメアリにこう言った。「人の心というものは欧州でも日本でもおなじなのですね。英国のご婦人はまことに勇敢で義務に忠実のようですが、それこそ私たちの理想なのです」。メアリは「ため息まじりに」答えた。「その点に関しては、あなた方こそ私たちにもっと教えて下されるはずです」。そのとき彼女は「もし我々西洋の女性が東洋の姉妹たちから、勇気ある謙遜、義務への忠実、比類なき無私を学ぶなら、どんなにか世のなかを変えることができるだろう」と考えていたのだった。

 むろん「ひとつの美点があまりに大きすぎると、自然の厳格な天秤はつりあいを保つために、きっと欠点をあたえる」。メアリは日本の夫たちが妻たちに与える不当な冷遇を思った。そして「この国では、西洋と違って結婚は人生における至高の関係ではなく・・・・私たちが言うような愛とは何の関係も」ないという事実について、考えをめぐらせぬわけにはいかなかった。「日本女性にとって結婚とは子供時代の屈託ない幸せな日々から、理性により責務を段階への移行です。全身全霊、頭も心もこの一事ーー新しい家の主人とその一族をことごとく満足させることーーに捧げなければならないのです。私たちから見れば、これはとても辛く冷酷なことです。西欧の最良の女性は、自分の価値をはっきり意識するよう教育されていますから、もしこのような絆に縛られれば、自分の人格がばらばらのなったと感じてしまうでしょう」。しかし、「英国の歴史のどこを探しても日本の妻たちがしばしば主人の足もとに捧げたような崇高で強い愛の例は見あた」らない。「愛はほんとうは、私たちには束縛としか見えないもののかなに生まれるのかもしれ」ない。メアリはそう考えて、今聞いた日本の女の目を見張るほ潔い話について、「彼女はどんなにか夫を愛していたことでしょう」と叫んでしまった。ところが「小柄な我が日本の友は、黒い瞳にあどけない微笑といういくぶんの驚きを見せ」ながらいうのだった。「違います。それは彼女の義務だったのです。彼は彼女の夫でしたから」。

杉本鉞子はミッション・スクール在学時に、「西洋の書物に描かれた恋愛をおもしろくまたたのしく」読んだが、それでも「それは精神の強さや高貴さという点では、親の子に対する恩愛の情とか、主従間の忠節とかには、較ぶべくもないように」感じた。彼女はのちになって「この未知の問題に対してゆがめられた考え」を持っていたと反省しているのだが、フレイザーが直面したのはまさに「感情よりも義理を重んずる」武士家庭のしつけだったのである。

 「どうやら『惚れた腫れた』という万人共通の楽しみは、結婚生活の義務を優しく心をこめて遂行することとまったく無縁であるように思われます。そしてひとりに人間がもうひとりの人間を全人格を傾けて崇拝する栄誉を授かるのに、なにも結婚前に準備として恋の病にかかる必要などないのかもしれません」と、フレイザーはやや冑を脱ぎ気味である。つまり彼女は日本人の友が、なぜそれは愛ではないと否定したのか、その理由がわかっていたのだ。”日本人の友”は愛を恋愛と受けとり、主人公が夫のために自己犠牲を払ったのは恋愛感情からではないと言いたかったのである。もはや惚れた腫れたなどという恋の病とは無縁の義務、それこそより深い意味の愛で無くして何だろうか。愛は恋とは無縁に、義務という束縛の形をとって育つ。これはフレイザーにとって発見だった。しかしなおかつ彼女には、トゥルバドゥール以来の西欧の伝統であるロマン主義的な恋、トリスタンとイズー風な運命的恋愛への夢を棄て去ることは不可能であったに違いない。彼女も言及しているように、日本の古き文明はそれを実生活とは関わりない舞台上の心中に閉じこめたのである。

 

渡辺京二『逝きし世の面影』p.378~380

 

おわり。