名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

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本日のつれづれ no.557 〜阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』-人はなぜ人を差別するのか-②〜

2017.10.09  【567日連続投稿】

 

 これらの職業は、小宇宙と大宇宙の狭間に成立し、大宇宙を相手にする特異な能力を持つ人間として、定住民から畏怖の目で みられていました。しかし、キリスト教は二つの宇宙の構図を否定したのです。

 すでにお話ししたように、大宇宙の神秘は神の摂理として信仰ある者にはすべて説明しうることとされていましたから、大宇宙の諸力に対する畏怖の念は、公的には否定されてゆくのです。カトリック教会は教義のなかで二つの宇宙を否定し、一元化しようとしています。妥協案として大宇宙は神そのものだという考え方も出されましたが、一般に人びとにとっては、大宇宙そのものの恐怖は、キリスト教の教義によって消え去るわけにはいかないのです。

 森の狼の叫び声は相変わらず森の恐ろしさを感じさせましたし、洪水は大宇宙の破壊力を示しています。嵐や不作も人為のむなしさを教えてくれたのです、人びとはキリスト教の教義を信じながらも、自然の脅威に翻弄され、大宇宙に対する恐れの念をもちつづけていました。

 キリスト教会は、人びとの大宇宙に対する恐れの気持ちを打ち消すために、あらゆる努力を払いました。人びとの信仰の対象として古い大木を伐採したりもしたのです。しかし、自然に対する畏怖の念を完全に消すことはできませんでしたから、人びとの畏怖は屈折した形をとらざるをえませんでした。

 つまり内心ではひじょうに恐れ恭っている人びとが、公的な世界ではその存在が否定され、社会的な序列からはずされていたからです。二つの宇宙が一元化されたからといって、すでにあげた職業がなくなったわけではなく、村落共同体や都市共同体にとっては、いよいよ生活に必要な職業となってゆきます。

 しかし、キリスト教の教義のなかでは、これらの職業はなんの位置ももつことなく、むしろ芸人などは存在を否定されていたのです。心の底で恐れ抱いている人びとが、社会的には葬られながら、現実に共同体を担うしごとをしているという奇妙な関係が成立したのです。このような状況のなかで、一般の人びとも、それらの職業の人びとを恐れながら遠ざけようとし、そこから賤視が生ずるのだと私は考えています。

 

阿部謹也『自分のなかの歴史をよむ』p.166~168

 

おわり。