2017.11.30 【619日連続投稿】
「『在る』が『食べる』と同じように能動態のみに属するということは、われわれには驚くべきことのように思われるかもしれない。しかしこれが事実なのであって、われわれはわれわれの解釈をこの事実に適合させねばならないのである」。
これに続くバンヴェニストのコメントはきわめて興味深いものだ。
「『在る〔存在する〕』は、インド=ヨーロッパ語では、『行く』や『流れる』と同様に、主体の関与が必要とはされない過程なのである」。
おそらく同じく能動態のカテゴリーに置かれている「生きる」についても同様である。すると、今日われわれが知る能動/受動のパースペクティヴからでは想像もつかないことが、能動/中動のパースペクティブからは読み取れることになる。
中動態と対立するところの能動態においてはーこう言ってよければー主体は蔑ろにされている。
「能動性」とは単に過程の出発点になることであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味から著しく乖離している。インド=ヨーロッパ語では、「存在する」も「生きる」も、「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」だったと考えられるのである。
國分功一郎『中動態の世界』p.90
能動性という言葉は、主体性と類似する言葉だと思っていたが、中動態との関係の中では、類似する言葉ではなくなる。
ただ、過程の出発点に過ぎないのである。
おわり。