2017.12.02 【621日連続投稿】
われわれはいま、中動態の歴史に迫りつつある。それゆえに、最初の問題へと戻ることができる。
能動態と受動態の対立は「する」と「される」の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。われわれは中動態に注目することで、この対立の相対化を試みている。かつて存在した能動態と中動態の対立は「する」と「される」の対立とは異なった位相にあるからだ。
そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない。
ここでたいへん深い事実に言及して次章へのおつなぎとしよう。ハンナ・アレントが伝えている次の事実である。
実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだ、という〔アリストテレス的〕見解は、暗々裏に未来を、真正な自制とすることを否定している。すなわち未来は過去の帰結以外のなにものでもない〔・・・〕。このような事情のもとでは、記憶が過去のための器官であるような具合で、意志を未来のための器官とする考えは全く不必要なものだった。アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。
國分功一郎『中動態の世界』p.97~98
おわり。