名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

読物つれづれ no.11 〜國分功一郎 『中動態の世界』〜

2018.01.08  【657日連続投稿】

 

読物つれづれとは、私が読んだ本の記録として、感想・気付き・印象に残った箇所を紹介するものです。

 

11冊目に読んだ本は、『中動態の世界』(著:國分功一郎)です。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 

この本も、私が通っている寺子屋塾で出会った本です。(今まで読物つれづれに登場しているほとんどが、寺子屋で出会った本たちです。)

 

 タイトルを見た時、「中動態ってなんだ?」と思い手にとってみました。英語の勉強で能動態と受動態は学んだけれども、中動態という言葉は初めて知ったからです。

 プロローグを読み終わった時、「あっ、これは読む本だな」と感じました。人と人との関係性に興味関心がある私にとって、「する」と「される」では、完結しないものがあると思っていました。特に、インタビューゲームという聞き手と話し手が分かれて行うワークショップを50人以上経験した中で、「話す」「聞く」が関係性に基づいて行われているということに気づいていたあたりから、関係性について目が向いていたからでしょう。

 

 本書は、論文のように緻密な理論や検証を積み重ねて、能動と受動を問いただし、「自分が思うように生きられないのはなぜか?」「意志があれば、なんでもできる」ということに一石を投じています。また反対に、「自分ではどうしようもできない」「自ら変えていくことはできない」と言っているわけでもありません。

 

  自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかでわれわれは何度も、自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に「自由」に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。

 だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することすら妨げるからである。

 その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。

 

 國分功一郎『中動態の世界』p.263

 

昨年の11月ごろから読み始めた本書を読み終えて、多くの哲学的な思考に触れてきた。スピノザをはじめ、バンヴェニストアレントデリダハイデッガードゥルーズアガンベン...それぞれの「意志」や「自由」の考え方を國分さんのフィルターを通して触れてきた。

 一つの言葉が、ことなる意味を持ち合わせつことがあると改めて知る機会となったわけであるが、「自由」と言う言葉は、いろんな解釈がある。「制限なく好き勝手にできるという意味での自由」を長い間、私は思ってきてたのだが、「制限や枠ががある中で、その制限や枠を広げようとすることこそが自由に向かうこと」であるんだと今では思います。

 読書は、色んな目的があるが「私は自由になるために読書をしてるのかもしれない」と思わせれくれた一冊でした。

 

おわり。