名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.646 〜西村佳哲『自分をいかして生きる』解説にかえて 平川克美の言葉より〜

2018.01.10  【659日連続投稿】

 

ここ二十年というもの、多くの若者たちが自己決定、自己実現、自己責任というアイデアに骨がらみにされてきました。しかし、ここでいう自己決定とは、実のところ目の前に並べられた料理のどれを食べらたら身体によいかというような、効率重視の強制された自己決定に過ぎないとぼくは思います。そんなふうにして料理を食べても楽しくもないし、おいしくもない。キャリアや報酬だけを基準に仕事を選ぶのも同じことです。そこには、働かないという選択肢も、自分で仕事を作り出すという選択肢も、あるいは仕事はなにをやったって同じことだと考える選択肢もあらかじめ排除されています。よい会社に入れば、自分らしさが発揮でき、自己実現できるというキャリアアップの考え方(随分流布されましたよね)は、一見合理的な考え方に見えますが、それは与えられた前提の中での、極めて限定された合理性にすぎないのだとぼくは考えています。

 ちょっと哲学的なことを言わせていただけば、人間は何か目的を持って生まれてきた存在ではありません。サルトルなら「実存」というでしょうし、お釈迦様なら「諸法無我」というかもしれません。ぼくたちがこの世に生まれ落ちたときに、すでにゲームは始まっており、ぼくたちはとつぜんそのゲームのプレイヤーとして、つまり遅れてきた存在として参加させられてしまっている。

 ぼくたちは、自分の意思で自由に生き方を選択し、決定しているかのように思いたいのですが、自分の意思で生まれたわけではないし、自分の意思で選択してるわけではない。

 詩人の吉野弘さんの詩にあるのですが、まさに I was born. というわけで受身型から始まっています。

 もし、僕たちが自分の意思ということに尊敬を表すとすれば、それは多くの人々がこの受身型を自らの責任として引き受け、偶然を必然として読み替える努力を続けてきたということにあるのではないでしょうか。そこにこそ意思の輝きがあるんですね。

〜中略〜

「働くことと生きることが同義であるような在りかた」。ぼくはこの言葉の射程の遠さに惹かれています。働くことはどういうことかを考えることを通じて、ぼくたちは働くことは、お金や、地位や、賞賛といった何かを得るための手段なのではなく、働くこと自体が生きることなのだということを確認しているのではないかと思っています。

 そんなことを徹底的に考えていくこと、仕事の深さを測定するようなこの作業はこどくなものに違いありません。でも、どこか遠いところに、同じように考え、同じように闘っている見えない隣人がいるのだと思うと、なんだか楽しくなります。

 

西村佳哲『自分をいかして生きる』 p.204~206

遠方の隣人への挨拶「解説」にかえて 平川克美の言葉より

 

おわり。