2018.02.07 【687日連続投稿】
以前は「学」と「習」について書いたが、今回は「知」についてです。
この点については、プラトンの『メノン』に現れる欲求に関するパラドクスと対比して考えるとより深く理解することができる。このメノンのパラドクスとは、次のようなものである。
人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っているのだし、ひいいてはその人には探求の必要がまったくないわけだから。また、知らないものを探求するということもありえないだろう、なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから。(プラトン 一九九四、四五〜六頁)
〜中略〜
「知らないものがある」と認識することで、探求の過程が始まり、新しい知識状態に向けて遍歴することが可能となる。
マイケル・ポラ二ーは、『暗黙の次元』という講義録のなかで、このメノンのパラドクスが二千年以上にわたって解かれておらず、暗黙を知ること(tacit knowing)を認めることによって解決される、と指摘した(Polanyi 1983,pp.22-3 )。このパラドクスは、全ての知識が明示的であるとすると、何も知ることができないことを示すからである。
論語のこの章は、メノンのパラドクスが、そもそも成り立たないことを、孔子がプラトンの生まれる前に指摘したいたことを示している。「知」とは明示的な実態ではなく、「知/不知」を峻別する暗黙の過程の名称だからである。
安富歩『生きるための論語』p.44~46