2018.04.17 【757日連続投稿】
先週の土曜日にべてるの家のドキュメンタリー映画の予告としての映像「V.O.P(ベリーオディナリーピープル)」を観てから、べてるの家のまたまたのめり込みつつある自分がいます。
V.O.Pの映像を観た時の記事
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本日のつれづれ no.727 〜V.O.P.予告編⑧ 上映会に参加して〜 - 名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ
今日、べてるの家らしい取り組みの一つである「当事者研究」について中心に書かれた『安心して絶望できる人生』を通勤時間に読み返していました。転職してから通勤で電車に乗っている時間が1時間20分くらいになりまして、本読みたい放題です。(実際はほとんど寝てしまっていますが...)
読み返していると、読んだはずなのに初めて読む文があるんですね。読み切れていなかったのか、その時はひっからなかっただけなのか分かりませんが、引っかかった部分がありました。
教育分野はじめ、今「自己肯定感」やら「自己重要感」やら色々と自己をどう捉えるか。ざっくり言うと、自分から見た自分をどう捉えるかということになります。よく「自己肯定感が日本人は低い」なんて言われますが、そもそも高い低いで表せるものでもないでしょう。
俗にいう「ありのままの自分を受け入れる」自己受容という言葉もあります。ネガティブな自分も肯定する自己肯定よりも自己受容が大切という意見もあります。
でも、どんな自分も受け入れようとすればするほど、それができない自分が余計に嫌になるなんてこともあります。それでも受け入れようと頑張るなんてことも...
べてるの家には「あきらめ上手な人」がたくさんいるらしいです。
「あきらめる」の語源は「明らかに認める」ということみたいです。
この明らかに認める「あきらめ」をされたべてるの家の清水里香さんは以下のように言ってます。
「『ダメなままの自分を受け入れよう』とこだわることもやめ、『あきらめるしかない』と思い、いままで自分が必死にしがみついていた手綱を手放したとき、手放したことで自分にマイナスになるものが何ひとつないことがわかったのである。
“あきらめる”というと、すごく大切なものをいろいろと捨てるような感じがする。苦しんでいるときは、『ダメな自分のままでいいんだ』ということを受け入れられない自分に、無性に腹がたっていた。しかし、『ダメなままの自分を受け入れられない』ので、悪戦苦闘の結果として『悩むことをすべて放棄する』ことにしたのである。そういう遠回りをして、やっと『ダメな自分のままでいいということは、こういうことか!』とわかるようになった。
あきらめること—それをべてるでは、生き方の高等技術としてとても大切にしている。いまでは、現実に起きていることは明らかにしてそれを全て受け入れることなのだと思っている。あきらめることは、はじめての一歩に立つことである。そのことを、話したり講演に行ったり、実際に生きている人たちの姿を見ているうちに実感できるようになった」
べてるの家のでは、このような生き方を「降りてゆく生き方」と呼ぶこともあるそうです。何か目標に向かって努力したりすることを「昇っていく生き方」と呼ぶならその逆になります。
どっちがいいというわけではなく、こんな生き方もあるってことです。
私が日々、ブログで書き続けているのも「当事者研究」と呼べるのかもしれないと思ったところで今日は終わります。
おわり。