2018.04.18 【758日連続投稿】
人の生涯のうち、一番美しくあるべき青春の季節は、おのずから最も生きるにむずかしい季節である。
神があらゆる贈り物を一度に人に与えてみて、人を試み、それに圧し潰されぬものを捜そうとでもしているかのように、その季節は緑と花の洪水になって氾濫し、人を溺れさせ道を埋めてしまう。
生命を失うか、真実を失うかせずに、そこを切り抜ける人間は少ないであろう。
人の青春が生に提出する問題は、生涯のどの時期のものよりも切迫しており、醜さtp美しさが一枚の着物の裏表になっているような惑いにみちたものだ。
モンテーニュが“人は年老いて怜悧に徳高くなるのではない。ただ情感の自然の衰えに従って自己を統御しやすくなるだけである”といっているのはたぶんある種の真実を含む言葉である。
青春には負担が多すぎるのだ。
しかも、その統御しやすくなった老人の生き方をまねるようにとの言葉以外に、どのような教訓も青春は社会から与えられていなない。
それは療法の見つかるあてのない麻疹のようなもので、人みながとおらなければならぬ迷路と言っってもいいだろうか。
もし青春の提出するさまざまな問題を、納得のゆくように解決しうる倫理が世にあったならば、人間のどのような問題もそれは、やすやすと解決しうるであろう。
青春とは、とおりすぎれば済んでしまう麻疹ではない。
心の美しく健全なひとほど、自己の青春の中に見いだした問題から生涯のがれえないように思われる。
真実な人間とは自己の青春を終えることのできない人間だと言っていいであろう。
伊藤整『青春』-まえがき-
問題が起こらないことが果たして良いことなのであろうか?
問題が起こらないように、人との摩擦を避けるような生き方はある意味「大人」。
問題を起こしたいわけでもないのに、起きてしまうのはまるで「思春期の子ども」。
問題が起きることは、確かに大変で面倒くさいことにもなるけれど、それが生きることであると思う。
問題をどう捉えるかで、問題の扱い方が変わってくる。
問題を問題視しすぎることなく、問いを得る機会と捉えることもできるだろう。
問題は起こしたいと思わなければ勝手に起きると思うので、安心して問題を待とう。
おわり。