名前?苗字? ひろやすの生き様ブログ

「ひろやす」と聞いて、名前だと思われる方が大半です。

本日のつれづれ no.741 〜久しぶりに『女子学生、渡辺京二に会いに行く』を読んで〜

2018.04.30  【770日連続投稿】

 

一昨日の投稿で、一年前の投稿を見てやっぱり渡辺京二×津田女子大学三砂ゼミの『女子学生、渡辺京二に会いに行く』という本から自分は強く影響を受けてるんだなと思いました。

改めて部分的に読み返して「いいなぁ」と思っています。

 

そういうふうな社会変革というか、社会をよくしていこうというのは、一般庶民が考えたことじゃないんです。これは全部知識人が考えたことなんです。近代に出現した知識人は、なんとか民衆というものの生活をよくしてやりたい。民衆というのは無知である、貧乏である、いろんな迷信にとらわれている、遅れている。だから民衆を教育して、一人一人啓蒙された市民にして、理想的な人間関係を作り、さらに社会の経済も含めて、一つの物質生産ということも管理し統制して、幸せな社会を作ろうとした。

 これはぜんぶ、知識人のおせっかいなんですよ。知識人が、人間はかくあるべきと教えることになる。おまえは不幸だよ、おまえは障害があるよ、おまえは遅れているよ、おまえはバカだからそれに気づいていないんだ、俺が教えてやる。おまえたちは全部不幸なんだよ。こうすりゃ幸せになるよ。俺のいうことを聞け。というんで強制収容所を作ってブチこんだわけです。強制収容所の起源はそこにあるわけです。要するに人間が全部彼らの考えよって幸福になれるようにするためには、それに逆らうような考えのやつは全部ラーゲリにぶちこまれにゃいけないわけなんです。

 もちろんかつての社会主義陣営のような抑圧体制というのは、中国と北朝鮮キューバあたりを除いて、だいたい崩壊してしまったけれども、しかし、それでいい、というんじゃない。結局今日の現代社会の、福祉という言葉、ウェルフェアという言葉が一番表しているんでしょうけど、それを万人のものにしようというのは、動機としては非常に崇高です。けれどもだんだんエスカレートしていって、結局ユートピアが反転して、逆ユートピアになってしまう状況になっている。このことがもう冗談ではなくなっているような時代だと思うんですね。

 僕らはもう、政府とか知識人とかにおせっかいを焼いてもらわなくていいんです。といいながら僕自身は一個の知識人ですから、僕がこう言っていること自体がおせっかいの一種なのかもしれません。みんなが相互扶助できることが望ましい。もちろん相互扶助といったって限界があるから、一つの政府があって、そこで福祉的な予算を組んで、施設を作るとか、そういうことが必要でしょけど、そういうことおはなるべく必要最低限に抑えておいて、社会全体の中にお互い助け合って生きていくという、そういうあり方を作ることが必要だと思うんです。

 

『女子学生、渡辺京二に会いに行く』p.105〜107

 

何か社会をよくしようと思って動く時には頭の片隅にでも置いておきたいと思います。

 

おわり。