2018.09.27 【918日連続投稿】
「どんなに訴えても親が私のことを分かってくれないので、もう絶望です」という話を聞くことは少なくありませんが、この「絶望」という言葉も、手垢を落としてみると重要な発見があります。
「絶望」とは「望みが絶たれた」という意味ですが、しかしこの言葉はまずはほとんどの場合、絶望していない時に使われているのです。「絶望」が使われるのは、ある望みを抱きつつもその望みが叶えられていない、待ちぼうけの最終段階においてです。
待ちぼうけは、人をある状態に縛り付けます。「絶望」を口にする時、「待っていても来ない」「期待しているのに得られない」といって嘆いているわけですが、その苦しみは、叶わないことによるのではなく、縛り付けられて不自由であることから来ているのです。つまり、これは「執着」の苦しみなのです。そのことに本人は気付いていません。
わずかに望みを残しながら、人は「絶望」を口にするのですが、もし待っている対象が決して現れないものであると分かった場合には、その人は一体どうするでしょうか。
泉谷閑示『「普通がいい」という病』より
おわり。