2019.01.25 【1035日連続投稿】
昨日の続きです。
この笑劇は「抑圧」とはどういうメカニズムかを実にごとに物語っています。
主人公は太郎冠者です。彼の前に散乱している空になったぶすの壺、打ち壊された家宝、青ざめている主人・・・それらがとりあえず「さまざまな心的過程」です。太郎冠者の意識と無意識のあいだにはちゃんと「太郎冠者専用の番人」がいすわっていて、これらの「さまざまな心的過程」の断片のうちから、「意識化するのが苦痛である断片」が太郎冠者の「サロン」に入室することを防いでいます。「番人」はあれこれの心的過程のうち、太郎冠者にとって不快ではない情報だけに意識化を許し、意識すると不愉快になるような心的過程は「無意識の部屋」に取り残されます。
目の前には、壊れた家宝と、空っぽになった砂糖のつぼがあります。これを太郎冠者は「(命令遵守のための相撲による)家財の破壊と引責自殺の試み」という「忠義の物語」に編集します。実際に起きたのとは時間の順逆が狂っているのですが、もうどちらも過ぎてしまったことですから、タイムマシンがない以上、太郎冠者が真実を語っているのか嘘をついているのかは主人には確かめようがありません。
太郎冠者はまさしくそう考えました。無秩序に散乱した「断片」がそこにあるとき、そこから可能性としては、どんな物語が真実であると言い切れるものはどこにもいないのだ、と。
しかし、太郎冠者の完全犯罪は成就しません。狂言の舞台では主人は瞬時のうちに太郎冠者の奸計を見破り、「遣るまいぞ、遣るまいぞ」と追い回し、笑いのうちに劇は終わります。
なぜ、太郎冠者の偽装工作は一瞬のうちに見破られたのでしょう。
ここが抑圧メカニズムのかんどころです。
『ぶす』で私たちがこだわるべきなのは、「番人」は何を受け入れ、何を拒んだのかという問題です。というのも、太郎冠者の「番人」は「ある心的過程」の受け入れを拒み、結果的には、それが太郎冠者の失敗に繋がっていたからです。
太郎冠者の「番人」入室を拒否して抑圧したのは「太郎冠者が嘘つきの不忠者であることを主人は知っている」という情報です。
太郎冠者は自分のことをあらゆる可能性を勘定に入れることのできる狡猾な人間だと思い込んでします。ところが、その太郎冠者は、「自分が嘘つきであることを主人は知っている」という可能性だけはみごとに勘定に入れますれたのです。
意識して不快になることは無意識に。
意識して不快でない情報は意識に。
不快だと思っていることが意識になっているときは、実は不快以外の感情があるかもしれない。
自分では筋が通っていると思っていても、他人からしたら全然筋通ってない問いことが起きるのも、無意識になっていることが必ずあるからだ。
つづく。