2019.03.17 【1087日連続投稿】
「私たちは誰しもが、自分の使っている語法の真理のうちに、すなわちその地域性のうちに、からめとられている。私の語法と隣人の語法の間には激烈な競合関係があり、そこに私たちは引きずり込まれている。というのも、すべての語法(すべてのフィクション)は覇権を争う闘争だからである。だから、ひとたびある語法が覇権の手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、無微候的な《偏見》(doxa)となる。政治家や官僚が語る非政治的なことば、新聞やテレビやラジオがしゃべることば、日常のおしゃべりことば、それが覇権を握った語法なのだ。」(『テクストの快楽』)
私たちが日常触れている言葉があるが、その言葉の陰には触れられない言葉があるのだと思います。
社会的に偉いと思われている人の言葉が正しいわけでもなく、言葉というのはは対等なのです。
「話す内容より誰が語るか」と言われることがありますが、それこそ言葉の覇権を巡っている一つなのかもしれません。
おわり。